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第四章 邂逅①
曜介と会うつもりはなかった。合コンに参加したのは偶然で、その場に曜介がいるなんて、まさか夢にも思わなかった。
河北は、真尋が新卒で勤めることになった高校の先輩教師で、おそらく元々面倒見がよかったのもあるだろうし、年齢が近かったこともあって、何かと世話になった。その頃から合コンだの飲み会だのに誘ってもらうことがあり、今回もまたその類だろうと高を括っていた。
何しろ、河北が今勤めている学校の同僚のために開催すると言うのだから、曜介が教師になっていたなど露も知らない真尋は、実に軽い気持ちで、所詮は数合わせに過ぎないのだから気負うことなく酒が飲めればいいやと、その程度に考えて参加したのである。
曜介が店に入ってきたことはすぐに分かった。足音で分かった。薄暗い店内の一番奥のテーブル席に座っていた真尋だが、それが曜介だと一目で分かった。それはきっと曜介も同じだっただろう。しばし無言で見つめ合った。
すぐに帰るつもりだった。会うつもりはなかったし、一生会わないままで構わないと思っていた。きっと曜介も同じことを思っていただろう。それなのに……
家に行くつもりはなかった。もちろん、するつもりもなかった。
曜介が一人暮らしをしていることも知らず、狭いアパートに住んでいることも知らなかった。最近別れた彼女のことが忘れられなくて、今はまだ恋愛する気分ではない、というようなことを酒の席で言っていたが、部屋の様子を見る限り事実のようだった。
男一人、安アパートで荒んだ生活をしているのかと思った。部屋は意外と片付いていた。布団は畳まれて押し入れに仕舞ってあったし、読みかけの漫画や雑誌も散らばっていない。洗濯物は洗濯機に入れられていたし、ゲームのカセットは本棚に並べられている。
そして、所々に女の影を感じた。ペアのマグカップ、一輪挿しの花瓶、パステルカラーのクッション、アンティーク調の壁掛け時計。極め付けは、洗面台に残っていたメイク落としシートだ。こんなもの早く捨てればいいのに、そうしないのには訳があるのだろう。
女の影を部屋の端々に見つけて、おもしろくない気分になった。身勝手なのは分かっている。ぐずる赤ん坊と変わらない。
十年の月日は長い。高校を卒業し、真尋は東京の大学に進学した。この窮屈な町から離れたかった。それ以上に、曜介から離れたかった。
大学生活は順調だった。相変わらず男遊びは続いたし、誘われて女を抱いたこともあった。そして、やっぱりセックスなんて大したことはないと思った。けれども、きっとそれでいいのだ。たまに大外れの相手もいるが、何も悪いことばかりじゃない。適当に気持ちよくなれて、すっきりできるならそれでいい。セックスなんて、所詮は娯楽の一つに過ぎないのだ。
曜介ももう大人で、セックスの一つや二つ知っているだろう。女の一人や二人、抱いたのだろう。そう思うと、不思議と気が休まった。
大学生活も後半になると忙しく、自然と男遊びの回数は減った。何となく、そういった欲求が薄れていた。就職してからは男とも女ともとんとご無沙汰で、自分は男として枯れたのだと思っていた。
それなのに、まさかここに来て、曜介と会ってしまうなんて。県外に進学して、そこで就職するつもりではなかったのか。曜介のいないこの街で、曜介の名残を感じながら、長い余生を過ごそうと思っていたのに。まさか戻っていたなんて。しかも同じような職に就いていたなんて。よりによって共通の知人がいたなんて。全てが誤算であった。
家についてきてしまったことも、女の影を見つけたことも、そのことが嫉妬心に火をつけたことも。全てが誤算だ。
真尋はずっと、自分は曜介を穢したくないのだと思っていた。穢したくないから触れることができない。清いものは清いままであるべきだと。
けれど、実際は。真尋は曜介を穢したかったのではないか。自分と同じ汚れを被ってほしかった。同じ泥沼へ堕ちてきてほしかった。だから、それを奪った女に激しく嫉妬した。奪われたものを奪い返してやろうと、衝動的にそう思った。
なんという醜さだろう。自分で自分が恐ろしい。不毛な男遊びを続けていたのは、そんな己を罰するためでもあったのだろうか。自分のことなのに、何も分からなくなってくる。
唇がふやけるまでキスをして、何度も何度も情を交わして、まるで永遠に続くかと思われた夜だったが、朝はあっさりと訪れた。
雀がチュンチュン鳴き始める時間帯だ。カーテンの隙間から朝日が差し込む。疲れて眠りこけている曜介の頬にキスをして、真尋は部屋を後にした。
二度と戻らない。二度と会わない。近いうちに引っ越しをしよう。できるだけ遠くへ行こう。仕事は──すぐには辞められないが。
「高ちゃん先生~、ちゃんと聞いてる~?」
午後の授業中。生理痛がひどいという女子学生が保健室を訪れていた。鎮痛剤を飲み、湯たんぽで体を温めながら、今はベッドで休んでいる。真尋は事務作業をしていたが、女の子というのは年齢に関係なくおしゃべりが好きで、じっと黙って寝ていることができないらしかった。
「悪い。何の話だって?」
「だからぁ、この前ね、彼氏と一緒に歩いてたの。昼間はすごい雨だったんだけど、その頃には雨は上がってて、晴れ始めてたのね」
「彼氏って、三組の?」
「そー! やだ、先生。ちゃんと覚えてるんだ」
「前に話してただろ」
「それで、その彼氏とね、一緒に帰ってたんだけど、トラックがすごい勢いで走ってきて、水はねられちゃったの。もう、バッシャーンって。すごかったんだから。二人ともびしょ濡れになっちゃって」
「そりゃ災難だ」
「そー。でも、なんかおもしろくなってきちゃってさ。だって、せっかく髪型とか決めてきたのに、一瞬で全部台無しなわけ。で、二人ともびちょ濡れでおそろいみたいになってたから、それがなんかおもしろくって、あたし笑っちゃったの。すっごい濡れちゃったねーって。そしたら、彼氏も一緒に笑ってくれてさ。それでまたおかしくなっちゃって、二人で爆笑してたんだけど……」
女生徒が急に言葉を切ったので、真尋はパソコンから顔を上げて振り返った。彼女は赤くなった顔を隠すように手で覆っている。
「そしたらぁ、キスされちゃったの!」
「いきなり?」
「そー! 二人ともびちょびちょでさ、バカみたいに爆笑してたのに、急にだよ! 別に初めてってわけじゃないけどさー、でもなんか、すっごいキュンと来ちゃって~。もう~、どーしよって感じ!」
「どうって、仲が良くて結構じゃねぇか」
「そーなんだけどさ。帰りに虹が見えて、それがすっごく綺麗でね。とにかく綺麗だったの。今まで見た中で一番ってくらい!」
「そういうの、最近だとエモいとか言うらしいが」
「そーそー! マジエモかったよ」
「濡れた服は大丈夫だったのか」
「それね! ママにめっちゃ怒られた!」
女子生徒はあっけらかんと言って笑った。
これが、青春の煌めきというやつなのだろうか。自分が同じ体験をしたらと考えると、真尋はとても笑えない。泥を跳ねられるのも、汚れた唇でキスをするのも、どちらもごめん蒙りたい。いくら好いた相手であろうと、いや、好いた相手だからこそだ。
しかし、真尋もかつてはこの女子学生のように、泥だらけになってもあっけらかんと笑っていられた。いつからこんなに潔癖になったのだろう。少なくとも高校生の時にはそうだった。
この仕事に就いて、高校生と接するようになって分かったことは、高校生は想像以上に子供だということだ。
真尋は、自分がまだ高校生だった頃、自分はもう十分に大人で、全てを分かった気でいて、いつでも正しい判断ができ、その責任を負うこともできると考えていた。しかし、こうして十年も経ってから思い返してみると、恥ずかしくなるくらいあまりに未熟だ。思い込みも甚だしい。
そして今、二十代も後半になって、理想の大人に多少は近付けているだろうと自意識では思っているけれど、傍から見たらきっとそんなことはないのだろう。まだまだ尻の青いガキで、大切なことを何一つ分かってやしないのだ。
この女子学生は、愛や恋について、真尋よりもよっぽど深く理解できている。泥水味のキスであろうと、視点を変えればこの上なく美しいのだということを、そしてそれは愛によるものだということを、真尋は全く理解できていない。理解できていないことに、気付けてすらいないのだ。
その日の夜、京太郎から連絡があった。「曜介と会ったらしいな」とのことだ。
「曜介に怒られたんだ。お前がこっちに戻ってきたこととか、就職先のこととか、なんで知らせてくれなかったんだって。まぁ、お前も口止めしてただろうがって、逆に怒ってやったが」
「ああ。悪かったな。板挟みにしちまって」
「それで、真尋。お前も怒ってるんじゃないかと思って、こっちから詫びの連絡をさせてもらったというわけだ」
「別に怒っちゃいねぇよ。終わったことだ」
「そうか? 詫びついでに飯でも奢ってやろうと思ったんだが。駅の近くにあるだろう。回らない寿司屋が。今ならビールもつけるぞ」
「寿司に合わせるなら日本酒だろ」
「何でも好きなものを頼むといい」
今度京太郎と会うことになった。夕方六時、駅前公園にて、だ。
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