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指輪④

 喉が渇いた。昨晩リビングで寝落ちしたはずだが、思いのほか体は痛くない。というより、床が柔らかすぎる。寝返りを打つと、隣に京太郎の間抜け面が見えた。   「……」    真尋はむくりと起き上がった。昨晩酔い潰れてリビングで寝たと思ったが、誰かがベッドまで運んでくれたらしい。いや、誰かなどと言うのはよそう。京太郎の横で大の字になっていびきを掻いている曜介が運んでくれたに違いないのだ。  そっとベッドを抜け出す。リビングは昨夜の惨状のままだ。空き瓶だの空き缶だのが転がり、食べかけのスナック菓子や、酒かジュースか何らかの液体が残ったグラスや、そんなものが散らかっている。真尋はそれらを手早く片付ける。ゴミはゴミ箱に、リサイクル品は洗って乾かし、洗い物はひとまずシンクに置いておく。  ベランダに出て一服し、洗面所で顔を洗っていると、京太郎が起きてきた。適当にタオルを貸してやってから、朝食の支度をする。といっても、お湯を沸かしてインスタントのスープとコーヒーを淹れるだけだ。「オレのは?」と京太郎が絡んでくるので、マグカップにお湯を注いでやった。  爽やかな朝だ。ベランダで小鳥が鳴いている。温かいスープを掻き混ぜて一口飲む。コーヒーはブラックだ。苦味が体に染み渡る。京太郎もまた、スプーンをカチャカチャやりながらスープを飲んでいる。   「大人になったのだな」    ふと、京太郎がしみじみと呟いた。   「何だよ、急に。ジジイみてぇなこと言うな」 「いや、なに。今、幸せか」 「きめぇこと言うなっての。見りゃ分かんだろ」 「そうだな。オレはお前が赤ん坊の頃から知っているから、なんだか感慨深くてな。娘を嫁に出すってのは、こういう気持ちか」 「誰が娘だ。てめーこそ、早く嫁の貰い手を見つけろよ」 「オレは男だぞ」 「分かって言ってんだよ」    幸せかどうかなんて、きっとまだ分からない。ただ、少なくとも真尋は、この先の未来を曜介と共に歩んでいきたいと願っている。だからこそ、一緒に暮らすことを了承したのだし、この指輪だって、二人で時間をかけて選んだのだ。   「……これ、昨日着けて寝たんだったか」    真尋が呟くと、京太郎はコーヒーを含んだまま咳込んだ。   「汚ねぇな。大丈夫かよ」 「いや、スマン。その、ほら、曜介が昨日うるさかったからな。指輪は指に着けるもんだとか、何とか……」 「あー、そういや、んなこと言ってたな」    ということは、ネックレスのチェーンは曜介のポケットにでも入っているのだろう。起きてきたら返してもらおう。  真尋は左手を朝日にかざす。キラキラと色を変えながら目映く輝き、いつまで見ていても飽きない。仕事柄邪魔になるのも、汚したり傷付けたりしたくないのも本当だが、この輝きを懐に仕舞い続けるのはもったいないような気もする。曜介が言ったように、家では指輪として使ってもいいのかもしれない。   「綺麗だな」 「まぁな。こんなもんで縛り付けておけるとも思えねぇが」 「二人で選んだんだろう」 「ああ。あいつ、意外にこだわりが強くてよ。骨が折れたぜ」    指輪を選ぶ曜介の真剣な表情を思い出して、真尋は頬を緩ませた。  そんなことを喋っている間に、曜介が起きてきた。寝癖でボサボサになった髪をボリボリ掻きながら、寝起きのライオンみたいに大あくびをする。よれよれのスウェットがずり落ちて、だらしない腹とくたくたのトランクスが覗いている。表情も仕草も服装も、お世辞にも美男子とは言えない。   「おめーら、ずいぶんはえぇなぁ」 「お前が遅いんだろ。早く顔洗ってこいよ」 「うーい」    まだ寝惚けているらしく、ドアや壁に頭をぶつけながら、曜介は洗面所へと消えていく。やはり、男前と呼ぶにはいささか残念さが残る。   「あんなののどこがいいんだ」 「同感」 「そこは否定しておけ」    口ではそう言うが、真尋の曜介を見る目は、やはりどこか特別で、色っぽいものがある。京太郎はおもむろに腰を上げた。   「そろそろお暇しよう」 「もういいのか」 「ああ。これ以上は野暮というものだろう」 「へぇ?」 「ここは二人の愛の巣だからな」 「だからきめぇこと言うなっての」    真尋は曜介を洗面所から引っ張ってきて、京太郎を玄関まで見送った。まだ寝惚けているらしい曜介は、京太郎の前だというのに真尋にベタベタ纏わり付く。   「それじゃあな。くれぐれも仲良くやれよ」 「ああ」 「んなに心配しなくても、だいじょーぶだって」 「もしも愛想が尽きたらいつでもウェルカムだからな」 「ああ、その時は頼まぁ」 「ちょっ、愛想なんか尽きるわけねぇから! 不吉なこと言うなよ。おめーもちっとは否定しろ」 「その調子なら大丈夫そうだがな。また近いうちに来る」 「ああ。いつでも来いよ」    ドアが閉まった。二人きりで残されたアパートの一室には、奇妙な静寂が満ちる。   「なぁ」 「んだよ」    曜介は甘えるように真尋を抱きしめた。   「どーするよ、この後」 「どうもこうも、まずは風呂だろ」 「その後は?」 「その後って」 「昨日できなかった分、しようぜ」 「……」    曜介は真尋の左手を取り、キスをした。   「キザったらしいのはやめろ」 「えー? 好きなくせに」 「別に好きじゃねぇ。つーか、今日は買い物に行く予定だろ。家具とか、家電とか、足りねぇもの揃えねぇとって……」 「あー、そういやそんなこと話してたな」    真尋の話を聞いているのかいないのか、手へのキスだけでは飽き足らず、曜介は真尋の首筋に唇を滑らせる。くすぐったいやら、ぞくぞくするやらで、真尋は密かに身震いした。   「しねぇ、って、言ってんだろ。今日は予定通り買い出しだ。大体、昼間っから盛ってんじゃねぇ……」 「じゃあ夜ならいいのかよぉ」 「屁理屈しか言えねぇなら二度としねぇぞ」 「わ、分かった、分かったって。夜までちゃんと我慢すっから。今日は約束通り買い出しな」 「……分かったならいい」    躾けられた大型犬よろしく、曜介はすっと手を引く。しかし、これが毎回通用するわけではないことを、真尋は身をもって知っている。今夜狼に喰われることを思い、密かに胸を焦がすのだった。

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