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第八章 花火①

 夏が始まった。鮮やかな日差しが地上を照らす。水分を含んだ南風が緑を揺らす。保健室は冷房が効き、窓ガラスを蝉の合唱が震わせる。本格的に夏真っ盛り。学生達は夏休み。しかし、それゆえに保健室は忙しい。   「気分はどうだ」    ベッドには、熱中症疑いの生徒が横になっている。氷嚢や氷枕で体を冷やしつつ、経口補水液を飲ませて休ませている。   「だいぶいいです」 「よかった。もう少し休んでいくか?」 「でも、もうすぐ親が迎えに来るみたいなので」 「なら心配ないな。念のため、今日は早く寝るように。水分補給も忘れずに」 「はい」 「もしまた体調を崩したら、いつでも来なさい」    部活に精を出すのは素晴らしいことだが、くれぐれも無理は禁物である。何しろこの炎天下だ。ギラギラ眩しい太陽と、熱せられた砂との間で挟み焼きにされながらスポーツに勤しむなど、この歳になってみると正気の沙汰とは思えない。体調を崩すのも当然だ。  昔もこんなに暑かったろうか。十年前、二十年前、こんなにも暑かっただろうか。今でこそ、可能な限り室内から出たくないと思っているが、昔は、暑さ寒さがどうしたものかとばかりに、屋外で元気に遊んでいた。汗みずくになろうが、夕立に見舞われようが、細かいことは気にしなかった。  しかし、この暑さは尋常でない。若者を真似てはしゃいでみようなんて、そんな気すら起こらない。屋内で完結するのなら、それに越したことはない。   「取り込み中だった?」    野球部のユニフォームに着替えた男子生徒が保健室を去り、入れ替わりで曜介がやってきた。   「今終わった」 「そ。保健室の先生も大変ね」 「お前だって忙しそうにしてるだろ」 「俺は暇なもんよ。生徒がいねぇってのは楽でいいわ」    曜介は冷凍庫を開ける。   「おっ、アイス」 「食ってもいいぞ」 「マジで」 「支度ができるまで、アイスでも食って大人しく待ってろ」 「ガキじゃねぇんだから、アイスじゃ大人しくならねぇよ?」    そう言いつつちゃっかりアイスを手に取り、曜介は冷凍庫を閉めた。    まだ午後の日差しが厳しい時間。二人は早めに退勤し、一旦家に帰る。荷物を置いて服を着替えた後、再び玄関が開く。連れ立って現れたそれは、祭りへ向かう浴衣姿だ。  カラコロと下駄を鳴らして往来を歩く。曜介の視線に、真尋はずっと気付いていた。横目にチラチラ見てくるが、あれで気付かれていないつもりなのだろうか。   「……うるせぇ」 「何も言ってないけど!?」 「……視線がうるせぇんだよ」 「だってお前、黒が似合うなと思ってよ」 「お世辞ならよせ」 「そんなんじゃねぇって。ホント、いつもよりすげぇ美人に見える。いや、普段からすげぇ美人ではあるんだけど」 「……てめーも、今日は三割増しに見えるぜ」    今日は市内の花火大会だ。メイン会場は湖畔公園、打上場所は園内にある湖だ。公園内はもちろん、その周辺一帯や、湖の支流である川沿いの土手や河川敷に至るまで、街中が今夜に限りお祭り騒ぎだ。公園へと近付くほどに往来は増え、露店も増え、活気のある祭囃子が聞こえてくる。   「昔とはだいぶ変わったな」    しみじみと真尋は言う。曜介も頷いた。   「大体、昔は会場ここじゃなかったし」 「店もこんなになかった」 「だよな。人出はこんなもんだったけど」 「会場が広くなったのにこんだけ混んでるんだから、昔より多いんじゃねぇのか」    市内の花火大会を訪れるのは初めてではない。小学校高学年頃までは、毎年見に来ていた。家族と来たこともあったし、曜介や京太郎と一緒に来たこともある。  だが、昔は湖畔公園が整備されていなかったため、川の下流にある広い河川敷がメイン会場になっていた。地元の祭りという雰囲気が強く、それはそれで楽しかったが、会場が移ってから来場者はうなぎ登りであり、その分だけ演出も華やかに、街は賑やかに、大々的な大会へと変貌を遂げたのだった。   「久々に来たけど、やっぱいいよなぁ、この雰囲気。京太郎も来られりゃよかったのに」 「しょうがねぇだろ。大事な学会があるんだから」 「まーな。偉ぇ先生も大変なこった」 「……おれは、お前と二人でよかったけどな」    祭りの喧騒に掻き消されればいいと思い、小声で呟いたのに、こんな時だけ曜介は耳聡い。嬉しいのを隠しもせずに頬を緩めた。   「え~? 急にデレちゃってどうしたの」 「……何でもねぇ」 「今はっきり言ったじゃん。俺と二人で嬉しいって。それってツンデレってやつ? 深夜アニメのヒロインなの?」 「うるせぇ。しつけぇ」    面倒な絡み方をしながら、曜介は真尋に手を伸ばす。普段ならスルーしているところだが、今夜は祭りで、祭りの夜は特別で、だからこそ、こんな往来で手を繋ぐのも悪くないのかもしれないと思った。  しかし、指先が触れる寸前、二人の距離に空白が生まれた。というのも、小さな子供が二人の間に割り込んで、走っていったためである。若い母親が慌てて追いかけている。何となく気恥ずかしくて、お互い黙ってしまった。   「……」 「……」 「……まずはなんか食うか」    曜介が言い、真尋は頷いた。  打上はまだ先だが、園内は既に大盛況だ。祭りは朝からの開催で、ステージでは様々なパフォーマンスが行われている。至るところに露店がひしめき合い、それらを買い求める浴衣や甚平もひしめいている。   「一回食ってみたかったんだよな、リンゴ飴。ガキの頃から憧れてたわ」    曜介は満足そうに言い、ビニールの袋を外した。   「食ったことなかったのか」 「なんかタイミングがなくてよ。祭り自体久しぶりだし」 「彼女とは来なかったのか」 「お前それ」 「冗談だ」    真尋はイチゴ飴に齧り付く。甘い飴と甘酸っぱいイチゴのバランスが絶妙であり、一口サイズのため食べやすい。曜介もまた、真っ赤な飴にコーティングされた艶々のリンゴを提灯の明かりにかざして眺め、一口齧った。   「かっっった」 「……だろうな」    曜介は前歯を赤くして顔を顰める。   「こんな硬ぇの? つーか、よく考えたら齧って食うにはデカすぎるよな。リンゴ丸ごと一個だし」 「……ああ」 「なにお前、経験済みなの」 「おれも昔、憧れだけでリンゴ飴を買って、理想と現実の違いに打ちのめされた口だ」 「マジか。言ってよ」 「世間じゃリンゴ飴ってのは大人気らしいし、おれだけの特殊な事例だと思ったんだ」 「確かに、祭りの象徴みたいになってるけど」    曜介が口の周りをベタベタにしながらリンゴを齧ったり舐めたりと苦戦している間に、真尋はあっさりとイチゴ飴を食べ終えた。リンゴ飴の処理について、ネットで調べてみる。   「おい。リンゴ飴ってのは、その場で食うもんじゃないらしいぞ」 「どーいうことよ」 「家に持ち帰って、包丁で切って食うのが正しいそうだ」 「マジで。初耳」 「おれもだ。とりあえず、包んであったビニールあっただろ。あれで包み直せ」 「あー、あれ……」    曜介はごそごそと懐を漁る。   「悪ぃ、捨てたわ」 「てめー……」 「ちょ、怖い顔しないで。もう三分の一くらい食ったわけだし、お前が手伝ってくれりゃ食い切れそうだから」 「一つ貸しだからな」    真尋も曜介の真似をして、口の周りをベタベタにしながらリンゴを舐めたり齧ったりと奮闘した。口の中が甘ったるくてしょうがなく、途中でしょっぱいものを挟んで気を紛らせながら、最終的に芯と種だけ残す形で、無事に完食したのだった。  甘いのか酸っぱいのかしょっぱいのか、味覚が混乱してきた。口直しにかき氷を食べることにする。定番の波模様が描かれた発砲スチロールカップに、定番のブルーハワイかき氷が山盛りになっている。曜介はそれをスプーンで崩して、一口口に運んだ。   「うまっ。やっぱ祭りっつったらこれだよな」    真尋も、レモンシロップに氷を溶かして一口食べる。爽やかな酸味と甘味が口いっぱいに広がる。ひんやりと冷たく、渇いた喉をすっきりと潤す。歩き回って火照った体を癒していく。   「お前は昔からブルーハワイだったな」 「ああ。それかイチゴね。お前はこれといってこだわりねぇよな。毎回違う味食ってた気がする」 「こだわりと言やぁ、京太郎に敵うやつはいねぇだろ」 「ああ、みぞれ一筋ね」    氷に砂糖水をかけただけのみぞれかき氷を、京太郎は子供の頃から好んで食べていた。しかし子供にとってみれば、いや、大人になった今でもそうだが、出店のかき氷なんていうのはこのカラフルでチープなシロップが売りなのであって、それを自ら捨て去るのはなかなかの酔狂という他ない。   「あれが一番氷の味を楽しめるとか何とか言ってたが」 「渋いガキだよな、ったく。俺は大人になってもやっぱり赤とか青のかき氷が好きだけどね」 「口ン中真っ青にしてよく言うぜ」 「マジで? 青い?」    曜介は、口の中を見せつけるようにして、長い舌をべろっと出した。提灯の明かりに照らされた薄闇の中、曜介の舌は鮮やかな青に染まっている。   「ペンキで塗ったみてぇだぞ」 「そんなにかよ。お前もどうせ真っ黄色だろ」 「さぁな」 「今キスしたらさ、ブルーハワイとレモンが混じって、メロン食ったみたいになるんじゃねぇの」    曜介は僅かに声のトーンを落とし、真尋の耳元に口を寄せる。   「二人で口ン中緑にしてたら、キスしてたってバレたりすんのかな」 「……バカ言ってんじゃねぇよ」 「まっ、んなことしなくても、おめーが俺のブルーハワイを一口食えばいいだけなんですけどね」    曜介は、青いシロップに溶けた氷をスプーンの先に掬って、真尋の口へと運ぼうとする。   「ほら、あーんだぞ」 「なんでだ。別にいらねぇ」 「食わず嫌いするんじゃありません。おいちーでちゅよ。ほーら、怖がんないでお口開けて」 「やめろって、人前で……」    素っ気なくあしらうふりをしながら、真尋も真尋で、こういったじゃれ合いが嫌いではない。いかにも恋人同士といった振る舞いに、心が少々むず痒くなるが、舞い上がりそうな気持ちにもなる。  普段なら絶対に公共の場でこういった振る舞いはしないし、曜介がそういった雰囲気に持ち込もうとしても断固拒否するのだが、今夜は祭りで、祭りの夜は特別で、だからこそ、たまには恋人らしい振る舞いをしてみてもいいのかもしれないと思った。   「あれっ、曜ちゃん先生!」    しかし、またしてもいいタイミングで邪魔が入る。浴衣姿の少女が三人も、わらわらと集まってきた。全員、曜介の受け持つクラスの生徒である。   「先生もお祭り来てたんだ。しかも浴衣だし」 「男だってめかし込みたい時があんの。みんなだって、浴衣でおめかししてんだろ」 「祭りって言ったら浴衣だもん。ねー」    ねー、と三人で顔を見合わせ笑った。少女が三人集まれば姦しい。漢字の通りである。   「高峰先生も一緒なの? 仲良しなんですか?」 「まぁ、そんな感じ。幼馴染的なアレで」 「えっ、そーだったんだ。いいなぁ、楽しそう」 「別に楽しくねぇぞ。学校じゃ他人行儀だし。な、高峰先生」 「……普通に大人の距離感で接してるだけだろ」 「ほらぁ、すげぇ冷たいの」    曜介が教師として普段どういった振る舞いをしているのか、どういった距離感、温度感で生徒と接しているのか、真尋はよく知らない。少なくとも、ここにいる女子生徒達からは慕われているようだ。まだかき氷を食べている最中だというのに、屋台巡りへと連れ出されている。   「曜ちゃん先生~、なんか奢ってくださ~い」 「悪いな。先生の財布の紐はギチギチに縛ってあんだよ」 「先生、あれは? 猫ちゃんのべっ甲飴、買ってください」 「今の話聞いてた? 大体なぁ、先生が祭りに来てんのは、みんなが悪さしないか見張るためでもあるんだぞ。ちょっとは危機感持てって」 「何も悪さなんてしないですよぉ」 「そんなに心配なら、ずっと一緒にいたらいいじゃないですか。先生は監視できて安心だし、奢ってもらえるならウチらも」 「だから奢らねぇって。学生は学生同士が一番でしょうが」    曜介の左右を二人の少女に取られて、真尋は一歩後ろを歩いていた。その隣には、三人目の少女がいる。この中で一番大人しそうな、背の低い子だ。実は保健室の常連であり、既に何度も顔を合わせている。   「高ちゃん先生」 「どうした」 「怒ってる?」 「……なんでそうなる」 「だって……」    少女は、くじ引きの景品で当てたらしいテディベアを抱きしめる。   「杉野先生、取られちゃって」 「あいつはおれのもんでも何でもねぇよ。取るとか、取られるとか、そういうのは」 「でも、私達が来る前は、杉野先生と楽しそうにしてたのに」 「そりゃまぁ、二人でいる時は素が出ることもある。気にするな」 「そうですか?」 「ああ。ただまぁ、あいつをあんまり困らすのは……」    射的で勝負し負けたら奢るという約束の下、曜介は二人の少女と並び、おもちゃのライフルを構えている。今のところ、勝負は五分五分らしい。   「あいつをあんまり困らすのはやめてやれって、お友達に言っといてくれ」 「……先生は……」    コルク弾が駄菓子のパッケージを掠めた程度で一喜一憂する曜介を見守る真尋の眼差しに、多感な時期を生きる少女は何かを感じ取ったらしかった。   「先生は、杉野先生が好きなんですね」 「……大事な幼馴染だからな」    真尋は落ち着き払って答えた。打ち上げまで、もう間もなくだ。

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