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第九章 甘露①

 朝から曜介の元気がない。ひどく落ち込み、溜め息ばかりで、仕事も些細なミスが目立つ。放っておけなくて、飲みに誘った。それが運の尽きである。   「喧嘩した」    徳利を何本か空にして、食事をつまむ手も止まってきたところで、曜介は切り出した。   「喧嘩ねぇ」    河北はお猪口に口をつける。実はまだほとんど飲んでいない。   「一応聞くけど、その指輪の相手だよね?」    河北が言えば、曜介は頷く。   「あいつの買ってきたケーキ、俺が勝手に食っちゃって、そんで言い合いになって」    実にくだらない理由だ。いい歳をした大人が、食べ物で喧嘩なんて。とはいえ、食べ物の恨みは恐ろしい。場合によっては、些細な諍いが別れに繋がることもある。甘く見てはいけない。   「もちろん、すぐに謝ったぜ? でも、あいつも意地っ張りなとこあるから、普段のちょっとした不満とか、我慢してることとか、いちいちあれが気に食わねぇだの、こういうとこを直せだの、がーっと捲し立ててきやがって、そんで俺もムカついて、色々言い返しちゃって、そんで……」    曜介は勢いよく酒を呷る。   「クソっ、なんであんな、思ってもねぇことを、俺は……」    曜介の赤らんだ頬を涙がぽろりと伝ったので、さすがの河北も今度ばかりは慌てた。   「クソっ、俺は、クソ野郎なんだっ!」 「ちょ、ちょっと曜ちゃん、落ち着いて。店員さーん、お水くださーい」 「水なんかいらねぇ。今日はもう、飲んで飲んで飲みまくって、飲んだくれてやる」 「そんなヤケになんないで。早く帰って、ちゃんと話した方がいいよ」 「うるせー。お前が連れ出したから、こんなことになってんだぞ。責任持って、朝まで付き合ってもらうからな」 「あ、朝までは勘弁してよぉ……」    曜介の目が据わっている。河北は観念した。曜介が満足するまで、付き合ってやるしかあるまい。  曜介の話を要約すれば、以下の通りである。喧嘩の直接の原因は先に述べたケーキであるが、同棲生活が長くなってきたことで溜まっていた不満が爆発したのも要因の一つだろう。  家事分担がどうだとか、生活態度がだらしないとか、逆に相手が神経質すぎて気を遣うとか、同棲生活というのは些細なストレスが日々蓄積していくものだ。二人の関係は、それをどう解消するかという段階に来ているのだろう。そう考えれば、今回の喧嘩を前向きに受け止めることも可能である。   「俺だってさぁ、ちゃんと反省してんだぜ? なのに全然口利いてくんないし、目も合わせてくんないし、今朝だって、俺が起きるより前に仕事行っちゃって、謝るタイミングもくれねぇし」 「うん」 「そりゃあさ、俺だって言い過ぎたよ。でも向こうだってひでぇと思わねぇ? ケーキ二つあるんだから、食っていいって思うじゃん。一人で二個も食うのかよ、ケチくせーよ」 「うん、うん」 「大体、何だよ。靴は揃えて脱げとか、靴下放っておくなとか、いちいち細けーし、おめーは俺の母ちゃんかよって。洗濯物に皺寄ってるとか、皿洗いしても泡残ってるとか、それ今言うことかよって。だったらなんだ? おめーこそ、料理は目玉焼きくれーしか作れねぇくせによぉ」 「うん、もう、その話何回目よ」 「何回でもいいだろぉが。今日は朝まで付き合ってもらうんだからよぉ」 「ほらもう、一回水飲んで」 「水はいらねーって言ってんだろぉ」 「水じゃなくてお酒だから、ほら、飲んで飲んで」    曜介はグラスを一気に空にして、氷を噛み砕いた。   「でも俺、あいつの作る目玉焼き、ほんとはすげー好きなんだよ。弱火でじっくりやるから焦げないし、黄身も綺麗な半熟だし。でも、塩胡椒ってのはいまいちな~。目玉焼きっつったらやっぱ醤油だろ。な、おめーも醤油派だよな?」 「いや、オレはケチャップ派」 「んだそれ、絶対少数派だろ」 「余計なお世話よ」 「んで俺、家じゃもっとベタベタしてたいわけ。なのにあいつときたら、せっかく二人でいるのに読書だの映画だの、あとあれだ、撮りためといたテレビの録画見たりさ。なんか難しそうな、真面目そうなやつ、やってんじゃん? ああいうの見たりさ。俺はもっと二人でいたいのに。いや、これァ俺のわがままか。俺ぁ、本当は、あいつがそばにいてくれるだけでいいのに、いつの間にこんなに強欲になって……」    自己嫌悪のターンも、これで何度目だろうか。この後はまた、一生口利いてもらえなかったらどうしよう。二度と許してもらえないかもしれない。でもあいつも悪いし……と続く。無限ループだ。くだを巻くとはまさにこのことである。  曜介がいよいよ酔い潰れ、居酒屋も閉店時間を迎え、河北はタクシーに乗り込んだ。ひとまずは曜介の家まで送ってもらう。こんな状態で帰って、彼女は余計に怒るんじゃないかと、他人事ながら心配した。  曜介に肩を貸し、ほとんど担ぐようにしてアパートの階段を上る。エレベーターがあればいいのに、と詮ない考えが頭を掠めた。  足を引きずり、息を切らして、やっとのことで部屋の前まで辿り着く。曜介が鍵を探すのを待っていられず、インターホンを鳴らした。夜更けだというのに、ドアはすぐに開いた。   「……」 「……」    ドアの向こうから顔を見せたその相手に、河北は目を丸くした。しかしそれ以上に、ドアを開けた相手の方が、さぞ驚いたことだろう。   「高ちゃん……?」

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