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甘露②
曜介と喧嘩した。原因は至ってシンプルながら、実にくだらない。くだらない言い争いに始まって、売り言葉に買い言葉、ヒートアップした末に、真尋は無視を決め込んだ。今になって思えば、どうしてあの程度のことであんなに腹を立てたのか、自分でもよく分からない。子供の喧嘩の方がまだマシだ。
「それで、あのー、二人はつまり、そういう……?」
座布団に正座し、河北は気まずそうに口を開く。曜介のことは、とりあえず着替えさせて寝室へ放り投げた。河北にも手伝ってもらってしまった。
真尋は胸元からペンダントを取り出す。そこに光る指輪を見て、河北は全てを察したようだった。
「いやー、しかしまさかだよね。そこがくっついてたなんて、世間は狭いっていうか」
「悪かったな。妙なことに巻き込んで」
「いやいや、全然。というかむしろ、オレは心から祝福してるよ。二人とも、オレが会ったばっかりの頃は、何だか毎日つまらなそうにしてたっていうか……失恋をずっと引きずってるみたいな、毎日が失恋直後みたいな、そんな顔してたからさ。それで、色々とお節介焼いちゃったわけなんだけど、完全に余計なお世話だったね」
「いや、あんたのお節介のおかげで、あいつとまた会えたんだ。感謝してもしきれねぇよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
真尋は窓を開け、煙草を取り出す。「吸うだろ」と一本差し出すと、河北は苦笑いしつつ受け取った。
「保健の先生のくせに、いいの?」
「構わねぇよ。大人だからな」
「相変わらずだねぇ」
ライターで火をつけ、一服。ようやく落ち着いた心地がした。
曜介が断りもなく家に帰らないので、真尋は内心大慌てだった。あの程度の喧嘩で家出なんてするはずがない。荷物だって全部置いたままなのに。でも全然帰ってこないし、連絡もつかないし、どうしたものかと焦っていた。
唯一の心当たりである京太郎に連絡を取ってみるも、何も手掛かりは得られず、「何か分かればすぐに知らせる」と京太郎は言ってくれたが、それで安心できるはずもない。しかし、まさか同僚と酔いどれていたなんて、心配して右往左往していたのが馬鹿らしい。
「この灰皿……」
灰を落とす時に目に入ったのか、河北はふと口を開く。
「ああ、結構気に入ってんだ。シンプルだけどデザインがいい。あんまり灰皿っぽくねぇし」
「これ、前の彼女が置いてったものなんだって? 曜ちゃん、愚痴ってたよ。他のものは大体処分したのに、灰皿だけは現役で使われてるから捨てられないって」
「あいつ、そんなことまで話してるのか」
「オレだって今日知ったよ。酔わせて色々聞き出すつもりが、聞いてもないことまでべらべら喋られちゃってさ、参ったよ」
「その調子だと、喧嘩の原因も知っていそうだな」
「ああ、ケーキがどうのって」
「食い物で喧嘩とは、我ながら恥ずかしいぜ」
真尋は深く煙を吸う。肺を満たして、ゆっくりと吐き出した。
「この際だから、恥さらしついでに言っちまうが、おれが腹立ったのはケーキを食われたことじゃねぇんだ」
「でも、高ちゃんの買ってきたケーキを、曜ちゃんが勝手に食べちゃったんでしょ?」
「ああ。先に勝手に食われたのにムカついたんだ。おれはただ……おれがなんで、記念日でも何でもねぇのにケーキなんか買ってきたのかって、そこをあいつが全然分かってねぇから、そういう雑なところにムカついたんだ。そりゃあ、近所にケーキ屋ができたから味見してみようぜとは言ったが、それはあくまで建前であって、本当は……」
真尋は煙草に口をつけようとし、燃え尽きる寸前だったのに気付いて、灰皿に押し付けた。
「おれはただ、あいつと二人で食うために、その時間のために買ってきたんだ。それなのにあいつ、一人で食いやがって、悪びれもしねぇ。能天気に味の感想なんか言ってきやがるからカチンときて──思い出したらまた腹立ってきた」
「まぁまぁ、落ち着いて」
「悪い。痴話喧嘩に巻き込んじまって」
「いいって。結構おもしろいし。でも、そういうことなら二人でちゃんと話して、仲直りしないとダメだよ? 曜ちゃんもすごい反省してるし、っていうかすごい落ち込んでたし、早めに許してあげてよ」
「おれもそのつもりだったのに、帰ってこねぇから」
「でもなんか、ずっと無視されてるみたいなこと言ってたけど」
「ずっとったって、夕べと今朝の話だろ。昨日は喧嘩したまま寝たし、顔を合わせるのも気まずいんで今朝は先に家を出たが、そんだけだ。おれだって、そんな長いこと意地を張るつもりはねぇよ」
河北はとんとんと煙草を叩き、長く積もった灰を落とす。
「それじゃあ、曜ちゃんは、たった半日無視されただけで、ゾンビみたいになっちゃったってこと?」
「あんたの話を総合するとそうなるな」
「うへぇ、痴話喧嘩ここに極まれりだよ」
河北は呆れたように顔を顰めつつ、どこか安堵したように笑った。
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