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甘露③

 夜も遅く、河北には泊まってもらった。明け方には帰ると言うので見送り、真尋は二度寝に勤しんだ。  二度寝から目覚めると、曜介も起きていた。布団を被ったまま、まるで捨てられた子犬のように、真尋を見つめる。元々ボサボサの癖毛だが、今朝は一層しょぼくれて見える。   「おはよう」    真尋が言うと、曜介はたじろいで布団に隠れる。真尋は布団を捲り、もう一度言った。   「おはようっつってんだ」 「オ、オハヨ……」 「なんで片言だよ」    真尋がベッドを下りると、曜介も後に続く。まるで鳥の雛だ。鳥の巣みたいな頭のくせに。   「なぁ、あの、俺、昨日……」 「相当酔ってたな。河北が連れてきたんだ」 「あっ、そーなんだ……」 「コーヒー、飲むだろ」 「うん」    ポットに湯を沸かして、インスタントのコーヒーを淹れる。真尋はブラック、曜介は砂糖とミルクを入れる。マグカップをテーブルに運ぶのは曜介にやってもらい、真尋は冷蔵庫からあるものを取り出した。それから、皿を二枚とフォークを二本用意する。  真尋は皿をテーブルに並べた。曜介は目を丸くする。テーブルに並べられたのは、キラキラのケーキが二つ。一昨日買ってきたのとは別の種類だが、同じ店のケーキだ。   「これ……」 「昨日、帰りに買ったんだ。お前と二人で食いたくて」 「……ありがと」 「……ああ」 「あと、ごめん。一人で勝手に食っちゃって」 「いや、おれも意地を張りすぎた。悪かった」 「……」 「……」    二人で見つめ合ったまま、笑った。時計の秒針がゆっくりと聞こえた。   「んじゃあ、ありがたくいただきます」 「起き抜けに食えるか」 「食える食える。もうめっちゃ食える」    目も覚めるほどに鮮やかなフランボワーズソースが、まるでルビーの輝きだ。滑らかなムースとクリームとスポンジが層になって、一口食べるごとに口の中が大喝采である。ムースの中には甘酸っぱいベリーのピューレが隠れており、それを探し当てるのもまた楽しい。   「うまい」 「ああ」 「いい店が近所にできてラッキーだな」 「これから行きつけにするか」 「こんなの毎日食ってたら破産するぜ」 「その前に糖尿だろ」    真尋は曜介の食事姿が好きだった。大きく口を開けて豪快に頬張る姿も好きだし、特に甘いものを食べる時、本人に自覚があるのかどうか分からないが、かなり気の抜けた様子で頬が緩むのが好きだった。   「なに。見惚れてんの」 「別に。いつも通りのアホ面だと思って」 「アホって何だよ」 「ソースがついてる」    真尋は指先で曜介の唇を拭う。真っ赤なソースを舐め取った。   「酸っぱいな」    そう言って秋波を送れば、曜介は悔しそうな顔をする。   「お前さぁ、そういうのホントよくないって」 「そういうのって?」 「だからそういう……」    曜介の顔が近付いてくる。曜介のこの表情も、真尋は好きだった。今、自分がケーキになったように感じる。真尋は素直に目を瞑り、訪れる刺激を待ちわびた。が、いつになってもそれは触れない。曜介の唇が離れていく。   「何だよ。ケーキのが大事か」 「いや、俺も反省してんのよ。調子ン乗って言葉責めみたいにすんのよくねぇって、一昨日お前に言われたし」 「それは……言ったが……」 「二日も間空いたから、なんか止まれそうにねぇしさ。今はとりあえずケーキ食おうぜ」 「……」    確かに言った。情事の最中、盛り上がった末に調子に乗って、こちらの羞恥を煽るようなことばかり言うのはどうかと思う、とは言った。言ったが、それが嫌だとか、やめてほしいとか、そういうわけでは決してない。思い出して体が火照る。  真尋は曜介の胸倉を掴んで引き寄せ、自ら唇を重ねた。ベリーの甘酸っぱさが微かに香る。   「しつっこいのがイヤなだけだ」 「しつこくなけりゃいいってこと?」 「んなの、てめーで考えろ」 「俺、お前のそういう可愛くないところ、すげぇ可愛いと思う」    曜介はにんまりと微笑む。ひょっとすると、こうなることまで計算尽くなのかもしれない。だが、それでいい。真尋は曜介の食事姿が好きだし、曜介もまた、好物を食べることができるのだ。何事も、最初の一口が最も肝心である。真尋は再び目を瞑る。   「いや、ちょっと待って」    しかし、またも曜介の唇は離れていく。真尋は舌打ちをしそうになった。   「今度は何だよ」 「河北だよ。昨日送ってきたんだろ? お前、会ったってことじゃん」 「それがどうした」 「色々バレたってことじゃん。俺、同棲中の彼女っていう体で、お前とのこと色々話しちゃったし、あとほら、媚薬とかさ。あれ、あいつがくれたもんだし。やばくない? いいのかよ?」 「まぁもう今更だろ。こういうのは遅かれ早かれバレるもんだ。あいつ、そんなに驚いちゃいなかったぜ。心から祝福するってよ」 「……そうなんだ」    曜介はぽかんと目を丸くする。   「というかお前、喧嘩の詳細をべらべら喋くってんじゃねぇ。ケーキが原因で喧嘩したとか、男二人で同棲してること以上に知られたくねぇよ」 「だって、あいつが色々聞いてくるもんだから」 「それに何だよ。おれの小言がうるせぇとか、料理は目玉焼きしか作れねぇとか、好き勝手なこと言いやがって。最近は卵焼きも作れるし、オムレツも作れるようになっただろうが」 「怒るとこそこかよ」 「それからあれだ。おれが何日も無視してる風に誇張して言っただろ。実際はまだ喧嘩して一日も経ってなかったろうが」 「ええ~、んなこと言ったかなぁ」 「河北から全部聞いた。てめー、酔ってて何も覚えてねぇんだろ」 「まぁまぁ、そんなにぷんぷんしないで、ね」    曜介は猫撫で声で宥めようとするが、二度もおあずけを食らった上に別の男の話をされて、真尋の甘えたい気分は失せてしまった。ケーキを食べ終え、食器を片付けようと立ち上がる。   「ちょ、行っちゃうの」 「ああ。てめーも皿空いたら持ってこいよ」 「続きはぁ……?」 「さぁな。先にシャワーでも浴びてこい。酒のにおいが残ってる」 「マジ? くさい?」 「というか、気が散る」 「気が散るってどういうことだよぉ」 「気が散るのは気が散るんだ。分かったらとっとと行け」 「なんだよもー、気まぐれ猫ちゃんかよ」 「誰が猫ちゃんだ」    今のこの冷めた気分も、曜介がシャワーを上がる頃には、きっとまた変わっていることだろう。気持ちの変化に間に合うように、皿洗いとベッドメーキングを済ませておかねばならない。

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