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第十章 旅路①
どこからかヒグラシの残響が聞こえている。いや、違う。これはジェット機のエンジン音だ。
「見て! 海!」
生徒の一人が叫び、修学旅行生を大勢乗せた機内は妙な高揚感に満たされる。珊瑚の海が見え、陸地が近付いてくるのに比例して、生徒達のテンションも爆上がりだ。客室の通路を挟んだ斜向かいに座っている曜介が振り向いて、真尋に目配せをした。
飛行機は無事空港に着陸した。といっても、曜介も真尋も、遊びでここまで来たわけではない。曜介は第二学年の担任として、真尋は養護教諭として、修学旅行の引率のために、この南の島へと降り立ったのである。
「懐かしいな、十年ぶりくらい? 全然変わってねぇ」
真っ青な海を前にして、曜介は呑気に笑う。
「しかし暑ちィな。蝉もうるせぇ」
東京はこのところめっきり涼しく、木の葉も赤く色付き始めているというのに、この南の島には夏が色濃く残っている。真尋は、目深に被っていた帽子を脱いで、うちわ代わりに扇いだ。海を渡って吹く潮風が涼しかった。
曜介の言った通り、ここを訪れるのはおよそ十年ぶり。高校二年の修学旅行以来だ。あの時は学生側だったが、今回は引率の教職員としての参加である。曜介と共に、再びこの地を訪れることになるなんて、考えてもいなかった。
修学旅行の引率と一口に言っても、受け持つクラスの生徒達と行動を共にする曜介と、突然の体調不良に備えて待機していなければならない真尋とでは、旅程はほとんど重ならず、基本的には別行動となる。
そんな中、水族館見学には同行することができた。生徒達は自由行動で、教職員も比較的自由に行動することができる。生徒達が羽目を外さないよう目を光らせつつも、目の前に広がる巨大水槽に心を奪われずにはいられない。
本当に海に潜ったかのような静けさに満ちている。海をそのまま切り取ったかのような大迫力の水槽で、巨大なジンベエザメが悠々と泳ぐ。マンタが優雅に羽ばたいて踊る。銀色に光るイワシが群れを成して渦を巻く光景は圧巻だ。
南国の海を再現した水槽は、色鮮やかで穏やかだ。強烈な光の降り注ぐ浅瀬から、白い砂地、珊瑚礁に、イソギンチャクに、光の届かない洞窟まで、色とりどりの熱帯魚が棲んでいる。小さなヒレをそよがせて泳ぎ、岩場の陰で休み、友と戯れて、全てが色彩に溢れている。
「こいつらは、ここを海だと思ってるんだろうか」
ふと、思ったことが口に出ていた。真尋の隣で、あちこち泳ぎ回る熱帯魚を目で追っていた曜介は、首を傾げた。
「海にしては狭すぎるだろ」
「小せぇ魚からすれば十分広いんじゃねぇか」
「でもほら、最初は海にいて、捕まえられてここにいるわけだろ? ホントの海の広さを知ってたら、ここは狭すぎるだろ」
「もし水族館で生まれた魚だったらどうだ。海から連れてこられたとしても、ただ別の海域に引っ越しただけだと思ってるかもしれねぇ。こいつらにとってみれば、そこが本物の海だろうが、水槽の中だろうが、そんなに変わらねぇのかも」
「……」
水槽のガラスに映った曜介と目が合った。花のような熱帯魚が、二人の間をひらひら泳ぐ。
「悪い。つまらねぇことを言った」
「いや、おもしろいと思ってよ。お前、水族館とか結構好きなの」
「さぁ、考えたこともねぇ」
「水槽一個一個よく見てるしさ。ちなみにお気に入りとかいる?」
「……クラゲは結構好きだな」
「クラゲね。確かに綺麗だよな」
深海ゾーンで一際異彩を放っていた、クラゲの水槽。青や紫のライトアップはどこか妖しげでありながら、水の流れに身を任せて浮いたり沈んだり、のんびりと揺蕩うだけのクラゲの姿は癒しである。
光の届かない洞窟に、一筋の光が差している。水面が揺らげば、その細い光も揺らぐ。細かく砕け散った光が、仄暗い海の底を照らす。砂地に小さな魚がいた。鱗を鈍く光らせて、光と戯れるように泳いでいる。
「どしたの。気に入った?」
妙な水槽の前で足を止めた真尋を、曜介は不思議そうに見る。その瞳は真っ直ぐに真尋の姿を映している。海の青を反射している。
「何でもねぇよ」
「そう?」
「外にも色々いるらしいから、行ってみるか」
屋外施設も充実しており、主に海獣類や、南国らしくウミガメが見られる。中でも一番人気なのは、やはりイルカのショーだろう。青く煌めく茫洋な海を背景に、よく訓練されたイルカが大ジャンプを繰り広げる。ダイナミックな水飛沫に観客は拍手喝采だ。
ショーのやっていない時間帯であっても、イルカのプールは開放されており、手の届きそうな距離からイルカを観察することができる。広いプールを地上から見下ろすと、水面を泳いだり跳ねたりするイルカの姿が見られ、地下のホールに下りると、水中を泳ぐイルカの様子が間近に見られる。
「こいつらは、自分がプールで飼われてるって、分かってるんじゃねぇの」
伸び伸びと泳ぐイルカを前に、ふと曜介が言う。
「……イルカは賢いって言うしな」
「だろ? ショーやってるのも、人間を楽しませるためって分かってやってると思うぜ。わざと水かけてキャーキャー言われるのを楽しんでるって、前になんかで見たし」
「だとしたらずいぶん平和な話だ」
「しかし羨ましいぜ。こいつら哺乳類のくせに、こんなすいすい泳ぎやがって」
「お前、カナヅチだもんな」
「泳ぎがちょびっと苦手なだけな? 別にいいんだよ、俺は陸上生物なんだし」
自然の光が水面から差し込んで、水は青く透き通る。その青い光の中、イルカは自由にのんびりと過ごす。ショーの最中に見せた力強いドルフィンキックとは違い、流線型の体を滑らかに撓わせて泳いでいる。時折ジャンプをしたり、仲間と息を合わせたりと、泳ぎを楽しんでいるようだった。
水族館見学の他、宿泊するホテルでの海水浴とマリンスポーツ体験にも同行した。水着ではないが動きやすい服装に着替え、砂浜から生徒達の様子を眺める。楽しそうなはしゃぎ声があちこちに響き、海で泳いだり水を掛け合って遊んだり、波打ち際を走ったり、砂浜で探し物をしたり、砂の城を作ったり、皆思い思いに過ごしている。
特に女子生徒などは、それぞれが悩みに悩んで選び抜いた選りすぐりの水着を着ていることもあってか、至るところでスマホを構え、決めポーズを取っている。ピンクや水色、黄色に紫、大人っぽい子だと白や黒のビキニなんかを着ており、白い砂浜によく映える。まるで珊瑚礁を泳ぐ熱帯魚だ。
曜介はといえば、担任として責任があるためか、より近くで生徒達を見守っている。羽目を外しすぎないよう監視しつつ、誘われれば生徒に交じって遊び、一緒に写真に写ったり、水に濡れたり、砂にまみれたりしている。
ひとひらの雲さえない紺碧の空だ。燦々と降り注ぐ太陽が眩しい。青い海が肌を焼く。白い砂は柔らかく、優しく肌を包んでは、さらさらと流れ落ちていく。
一瞬、曜介と目が合った。生徒達を見守る最中、右から左へ視線を流す、ほんの一瞬の出来事である。目が合って、視線が絡んだ瞬間に、曜介は少しだけ微笑んだ。そしてすぐに、生徒の方へ視線を戻す。
強い日差しに、真尋は目を細めた。寄せては返す波の音と、楽しげな笑い声が重なり合い、響き合って、どこまでもどこまでも広がっていく。
修学旅行も最終日に入る。最後の晩、救護室は幸い無人だった。昨日も一昨日も、突然の発熱だとか、バイキングで食べ過ぎてお腹が痛いとか、はしゃぎすぎて気分が悪いとか、様々な症状の生徒が訪れ、場合によっては病院へ送っていたが、幸い、最後の夜に体調を崩す生徒は出なかった。久しぶりに、夜をゆっくり過ごせそうだ。
その時、誰かがドアをノックした。
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