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第十一章 危機①

 ここしばらく、曜介と真尋の距離感がおかしい。何となくではあるが、河北はそう感じていた。うまく言葉にするのは難しいが、どことなくよそよそしいというか、互いに会うことを避けているような節がある。  もちろん、職場で乳繰り合ってほしいというわけでは決してない。公私の区別は付けるべきである。とはいえ、必要以上に距離を取り過ぎているのも、それはそれで気になる。これはきっと、生まれ持った性分なのだろう。つい、お節介を焼きたくなってしまう。  定期考査に進路指導にと、このところ職員室は大わらわだったが、今日はようやく一息吐けそうだ。隣のデスクで伸びをする曜介に、それとなく探りを入れてみる。   「喧嘩? ないない。最近は全然」    しかし、曜介はあっけらかんと言ってのけた。河北は訝しむ。   「いや、ホントだって。平和なもんよ? そりゃあ、最近忙しかったから、家じゃ寝るだけになってたけどよ。それだけだぜ?」    曜介の表情にも、言葉尻にも、特に隠し事をしている印象はない。二人の間に剣呑な空気が流れていると思ったのは、河北の早とちりだったのだろうか。  タイミングを見計らって、真尋にも話を聞いてみた。保健室に常備しているハーブティーを淹れてくれながら、真尋は不思議そうに首を傾げた。   「喧嘩? しばらくしてねぇよ」    曜介と同じことを言う。   「あいつ、最近はよっぽど忙しかったみたいだからな。家じゃ食って寝るだけで、喧嘩する暇もねぇよ」    やはり、真尋にも隠し事をしている様子はない。全ては河北の勘違いだったのだろうか。いや、やはり何かが気にかかる。だが、その正体が何なのか。突き詰めて考えると、藪蛇になりかねない。二人のことは二人に任せるとして、河北はこれ以上深入りするのをやめた。    *    とうとう河北に勘付かれてしまった。何もない風を装ったが、白々しい演技である。それでも、河北は騙されてくれたようなので、真尋はひとまず胸を撫で下ろす。  悩みがあるなら相談すればいいのに、そうできない理由があった。なぜなら、その悩みの内容が原因である。曜介と、セックスレスだなんて。口が裂けても言えっこない。  特にこれといった切っ掛けは思い当たらない。気付けば一か月、いや、一か月半? さすがに二か月は経っていないと思うが、それほどの期間、体を繋げていない。  もちろん、曜介が多忙を極めていたというのも、一つの原因だろう。いつも帰りが遅く、持ち帰りで残業をしたりして、そうなると休日はほとんど寝て過ごすことになり、喧嘩をする暇もなければ、愛を育む暇もなかった。  だが、河北の話ではそろそろ繁忙期も落ち着くようなので、さすがに今夜くらいはと、真尋は密かに期待した。   「悪ぃ。疲れてんだよね」    しかし、結果は見ての通り惨敗である。  就寝前に、それとなく誘ってみた。「最近抜いてねぇし、溜まってるんじゃねぇか」と。だが、反応は上記の通りである。真尋の重ねた手をやんわりと払って、曜介は眠ってしまった。しかも、こちらに背を向けて。  言い訳の余地もなく、完全にセックスレスだ。倦怠期だとかマンネリだとか、そういったものの延長なのだろうか。一人の相手と長く付き合ったことのない真尋には、初めての経験だった。    曜介と再会し、正式に付き合い始めて、どれくらい経っただろう。同棲を始めて、どれほどの時を共に過ごしてきただろう。毎日毎晩、学校だろうが旅先だろうがお構いなしに、常に真尋を求めてくれていたのに、あの曜介が、いまや真尋の誘いに見向きもしない。  一体何が原因だ。この体に飽きてしまったのだろうか。十年越しの恋が冷めてしまったのだろうか。決して実を結ばない交わりに虚しさを覚えたのだろうか。不毛の大地に種を蒔く虚しさに気付いたのだろうか。  そうだとしたら、いや、そうだとしても、真尋はもう、曜介のそばを離れられない。曜介のいない人生なんて、考えられない。魂の根っこの部分に、曜介の愛が栄養として降り注いでいるのだ。栄養が行き渡らなくなれば、たちまちのうちに枯れてしまう。    己という存在は、いつの間にこんなに脆く、我儘に、貪欲になっていたのだろう。初めはこんな風ではなかった。もしも曜介が、やっぱり女と結婚して子供が欲しいと言い出したら、潔く捨ててやるつもりだった。手酷く振ってやるつもりだった。罪悪感で一生苦しめてやるつもりだった。  それなのに、今はどうだ。もしも曜介に別れを切り出されようものなら、みっともなく泣いて縋ってしまうだろう。そんな嫌な自信がある。どんなに面倒な女よりも面倒くさい。こんなつもりじゃなかったのに。  それもこれも、全て曜介のせいだ。愛のある交わりがどれほど素晴らしいものか、教え込まれてしまった。  かつての真尋にとって、セックスは恐ろしい暴力であり、あるいは、退屈しのぎの手段でしかなかった。それなのに、曜介に愛されるうちに、そこに幸せを見出すようになってしまった。人と肌を重ねることが、こんなにも幸福な営みだったなんて、真尋は全然知らなかった。そんな基本的なことを、曜介に一から教えられた。  だからこそ、ほんの少し触れてもらえないだけで、足元が揺らぐほど不安になる。本来なら、ただそばにいられるだけでよかったのに、今ではもう、それだけでは満足できない。触れてほしい。抱いてほしい。愛してほしい。そんな思いで胸が張り裂けそうになる。    直接的な言葉で誘い、拒絶されたのはかなり応えた。もし、次にまた拒まれたら、今度こそ心が折れてしまう気がして、真尋は次の手を打つことができなかった。曜介が、言い訳でなく本当に疲れているだけだという方に懸けて、待ちの姿勢に入ったのだった。  そんなこんなで数日が過ぎ、一週間が過ぎ、冬休みに入っても、曜介は一向に真尋に触れようとしなかった。もちろん、冬休み中も仕事はあるが、授業がない分、目に見えて暇である。にも関わらず、曜介は真尋に触れようとしない。  不安よりも怒りが込み上げてきた。飽きたなら飽きたと、冷めたなら冷めたと言えばいい。やっぱり女と結婚したいなら、そう言えばいい。子供が諦められないなら、はっきりそう言えばいい。何も言わず、自分から別れを切り出すこともしないのは、全く男らしくない。   「おい」    夕食の最中、鍋を突つきながら、真尋は切り出した。生姜の効いた鶏つくねが真尋のお気に入りで、曜介は冬になるとこればかり作っているが、その話は一旦置いておく。   「なに。生煮えだった?」 「違ぇ。今夜やるぞ」 「……」    会話の流れから考えて、まさかこのタイミングで夜のお誘いをされるとは思っていなかったらしい曜介は、ぽかんと口を開けた。   「あー……急に積極的じゃね? なんかあった」 「何もねぇよ。やりてぇからやる。そんだけだ。文句あんのか」 「い、いや~、でも今夜はなぁ~……」 「でももだってもねぇ。やるっつったらやる。ちゃんと用意しとけよ」 「……」 「分かったら返事」 「……ハイ」    直接的な言葉で誘い、拒まれこそしなかったものの、曜介は全く乗り気ではなさそうだった。しかし、ここまで来たからにはやるしかない。長いこと放っておかれた体が疼いて仕方ないのだ。曜介がその気にならなくても、こっちで勝手に楽しんでやる。  そんなわけで、念入りに体を洗って準備を済ませた。曜介もまた、普段の倍以上の時間をかけて入浴を済ませ、濡れた髪もドライヤーでしっかり乾かした。曜介が戻るや否や、真尋は電気を消して寝室へと促した。   「あ~……やっぱ俺、今日はちょっと疲れてんだけど……」    この期に及んで曜介は渋る。しかし、真尋の我慢も限界だ。堪忍袋の緒が切れる寸前というやつである。渋る曜介をベッドに押し倒し、胸倉を掴み上げて強引に唇を奪った。  舌をねじ込んでやれば、応えて舌を絡めてくる。なんだ、お膳立てしてやれば乗ってくるんじゃないか、と真尋は内心安堵した。持てる限りの技を駆使してキスをする。出来得る限りいやらしく、性欲の匂いのするキスをする。  例えば、曜介の舌を甘噛みしながらしゃぶってやる。舌の裏から前歯の裏まで、舌を這わせて舐め上げる。時折吐息を含ませながら、まるで性器そのものを愛撫するかのように、舌を重ね合わせる。  曜介の息も上がってきている。そろそろ頃合いかと思い、真尋は曜介の体に手を這わせる。スウェットのウエスト部分を引っ張って、下着の中まで手を忍ばせる。黒々とした下生えを掻き分けて、ようやく辿り着いた肉棒を優しく握る。   「……おい」    しかし、すぐに違和感に気付いた。今まで、キスをすれば自然と硬くなっていたはずの男性器が、くたびれたままピクリともしない。ゆるゆると上下に扱いて、先端を指先で撫でてやっても、先走りの一滴すら零さない。まるで死んでしまったかのように、へたばったまま動かない。   「おい、なんで勃たねぇ」 「いや~……はは……」    曜介は気まずそうに目を逸らし、乾いた笑いを浮かべた。   「何つーか、まぁ、ご覧の通りで……ここんとこ、うんともすんとも言わねぇっつーか」 「……」 「最近忙しかったし、疲れてるだけかとも思ったんだけどよ……やっぱ、ムリみてぇ」 「……の、せいか」    まさか、本当に飽きてしまったのか。この体にピクリとも反応できないほど、飽きてしまったのか。二十年以上温め続けた恋が冷めてしまったのか。不毛な交わりが虚しくなったのか。  最悪の事態を色々と想定していた真尋だが、いざ現実を突き付けられると、あまりの残酷さに直視できない。この先のことなんて、とても考えられない。何も考えたくない。   「おれじゃ、だめか……」    曜介に捨てられる。曜介が離れていってしまう。二度と触れてもらえない。抱きしめてもらえない。そうなったら、この魂はたちまちのうちに枯れてしまう。そうなったら、この先どうして息をすればいいのだろう。  これはある種の絶望だ。世界から色が抜けて墨一色になり、やがて全てが影になる。雑音が酷く、全てがくぐもって聞こえない。砂漠のオアシスが干上がるように、心も体も干からびていく。   「真尋!」    現実へ引き戻された。曜介の両手が、真尋の頬を包んでいる。優しく包まれている。優しい指先が瞼を拭った。   「んな顔すんなよ」 「だって……おれじゃもう、ダメってことだろ」 「いや、それは絶対あり得ねぇから」    曜介はきっぱりと言い切った。その瞳は真剣そのものだ。下半身は丸出しだというのに。   「でも……じゃあなんで勃たねぇんだ」 「そこはほら、七不思議というか」 「不思議でも何でもねぇだろ」 「お前に飽きたとか冷めたとかじゃなくて、単純に俺の体の問題なんだよ。最近は朝勃ちもしねぇし、オナニーしようとしても無理だったし。試しにAV見てみたけど、やっぱ全然反応しねぇの」 「インポ……」 「そーいうこった。今だってさぁ、気持ちの上では勃起させようとがんばってんだぜ? できることなら、お前の中に入りてぇの。でも、頭と体は直結してねぇっつーか。俺がいくらがんばっても、息子が全然やる気出してくんねぇの」 「そう、なのか……」    ご自慢の息子を、真尋は指先で突っついてみる。曜介の言った通り、やる気を出すどころか、しょんぼりと塞ぎ込んでいる。   「どうしたら元気になるんだ」 「それが分かりゃ苦労しないんだけどね」 「……病院?」 「まぁ、それも一つの選択肢だな」 「バイアグラとか、聞いたことあるぞ。うちにもちょうどいいのがあるじゃねぇか」    真尋が言うと、曜介も同じものを思い浮かべたようだったが、あれはダメだと首を横に振る。   「ありゃダメだ。効かねぇよ」 「なんでだ。効いてただろ。あれ飲むと引くほど元気になるじゃねぇか」    以前河北にもらった媚薬。瓶の中身はまだ残っているはずだ。あれを使った日のことは、あまり思い出せない。思い出せないほど激しく乱れ、求め合ったのだ。実は、薬の効能は大したことはなく、かなりの部分をプラシーボが補っているのだが、まだネタばらしをされていない真尋は、あれを本物の媚薬と信じている。   「薬飲んだ時だけ勃起しても意味ねぇっつーか……永続的に元気でいてくれねぇと」 「だったら……」    どうすればいいというのだ。薬に頼らず、真尋にできることなど、たかが知れている。   「……お前の望むこと、おれが全部叶えてやる」    これ以上は思い浮かばない。真尋は恥を忍んで口を開く。   「お前が今まで我慢したり、遠慮してできなかったこと、何にでも付き合ってやる」 「何にでもって……ホントに何にでも?」 「できる範囲で、何でもだ。エグいSMでもコスプレでも、何でもしてやる」    自分で言っていて馬鹿らしいとも思うが、これ以上の策を思いつかない。曜介の曜介を元気にするため、真尋にできそうなことは他にない。   「別にそんな、エグい変態プレイがしたいとか、思ってるわけじゃねぇけどな?」    そう前置きしつつ、曜介は前のめりになって目を輝かせた。

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