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浴場の入口で、アロがこちらを振り返った。 「ここまでで結構です」 「従者がいない、湯浴(あ)みを手伝いましょう」 「結構です、一人でできますし、それに貴方は宦官ではありません」 「いかにもーーー」 「つまり、私に”奉仕”をお望みですか?」 「まさか、大目玉どころじゃなくなります」 「そうですか」 「私にはあなたの世話をする役目があります」 俺のつまらない方便に冷めた目をくれた彼は、勝手にしろと言いたげにそっぽを向いて浴室に向かった。 脱衣所でも浴場でも、アロには背を向けていた。 体を洗い流し終え、浴場の隅の俺から十分に距離を取って湯に浸かったらしい彼は、しばらくすると静かな口を開いた。 「どうしてアーサー様は、背を向けているのですか?」 「見る必要がありませんからーーー」 「今更、貴方はもう十分見ているでしょう」 「…王のおかげで、やむを得ずーーー」 「それも仕事」 「……ええ、何か手伝いが必要ですか?」 「いえ、ありません」 「…なんでも、遠慮なくお申し付けください」 「………」 「…あなたはきっと、私が何を言っても信じないでしょう」 「………」 「だから、今から私はあなたに一切の嘘はつかないことにします」 「…」 「私があなたを見ないのは、あなたに敬意を払っているからです」 「…」 「あなたは確かに奴隷だが、見世物でもおもちゃでもない…少なくとも、私にとっては」 「…」 「あなた自身が、その体を見せたいのなら喜んで拝見しますが…」 「…アーサー様」 「はい」 「アーサー様は、王の親族ですね?」 「…はい」 「…」 「…従兄弟(いとこ)です」 「そうですか」 その声はただ平坦で、どんな僅かな棘もなかった。 「…」 「殿下」 「名前でいいーーー」 「貴方の言葉を、信じようと思います」 「…」 「…少しくらいは」 「嬉しいーーー」 「ですから、私に敬語を使うのはおやめください」 「…」 「…」 「…わかった、が」 「?」 「皆の前では使う」 「なぜーーー」 「説明の必要が?」 「…湯を出ます」 「ああ」 ざばりと立ち上がった音を聞いてその場を離れ、脱衣所で背を向けてアロが女物の夜着を身につけるのを待った。 「着ました」という声に振り返ると、血と濃い化粧を落とした素顔の男が、まっすぐ俺を見つめていた。 強い意志を秘めた淡褐色(ヘーゼル)の瞳、気高さを隠さない高い鼻。不屈を語る強く結んだ唇は、どんな恥辱を受けても醜く歪むことがない。 "竜のへそ”で誰よりも目を引いた、強く、凛々しく、真に美しい戦士がそこにいた。 「………」 「…私の顔に何か?」 「いや……髪が濡れていては湯冷めする、拭いてやろう」 「結構です」 浴布を被った彼は、顔を隠すようにして浴場の外に出た。 「化粧をしなければなりません」 「俺にはできない、誰かを呼ぼう」 アロの館に向かう間、なるべく酒の入っていない侍女を見繕って数人集めた。 女達はアロに気づくと嫌な顔をしたが、俺が笑えば尻尾を振って従った。 「…貴方は何もかも思い通りですね」 「そうでもありません」 「…」 「しかし、私のような者がここにいたほうが都合がいいのです」 「そうですかーーー」 「あなたにとっても」 「…」 しぶる侍女達を焚き付けて、主人に尽くすつもりで化粧をさせ、新たな青緑の衣を着付けられたアロは、これまでになく美しい”女”に変貌した。 侍女達を下がらせると、鏡の中のアロは俺を蔑んでいたが、そんな表情(かお)もなおのこと美麗だった。 「どういうおつもりですか…?」 「お前に敬意を払ってるだけーーー」 「貴方は私を守りたいのか、ならず者の餌食にしたいのかわからない」 「もちろん前者だ」 「…ではまた、やむなく剣を振り回すおつもりですか?」 「俺は武官でもあるが、実のところああいうのは好きじゃない」 「そうですか」 「それじゃ、宴に戻ろう」 手を差し出すと、俺を無視してつかつかと出て行く後ろ姿の腰に目を奪われる。 体は透けなくなったが、それでも薄布が描き出す腰から尻の曲線がかえって艶めかしい。 「本当に美しい、並み居る妃達が軒並み霞むほどーーー」 「首が飛びますよ」 「誰も聞いてないしこれくらい平気だ…濃い色の衣の方が肌が映えていい」 「…」 「汚れた衣は処分しろ、新しい物を調達してやるーーー」 「貴方の狙いはなんですか?」 「急になんだ?」 「今日になって、突然近づいてきたーーー」 「これまで手出しの暇と差し迫った必要がなかっただけ」 後宮の前庭を抜け、入口の門をくぐった時だ。 内廷に続く渡り廊下の階段に足をかけたアロの上体が、ふいにぐらりと前にのめった。 「!?」 咄嗟に抱き止めた体の熱さに、ガイの言葉を思い出す。 「おい!具合が悪いのか…?」 「…大丈夫です、少しのぼせただけ」 顔を覗こうとした俺を突き放したアロは、何か苦しそうに俯いて「ありがとうございます」と体を立て直した。 「適当言うな、戻って休めーーー」 「王が許しません」 掴んだ腕を振り払ったその力も仕草も、あの戦場で最も輝いていた男とは思えない。 たった4ヶ月で、こんなにも力を削がれてしまうものなのか。 「…残酷な」 「なんですか?」 「いいから戻れーーー」 「貴方は私の主ではない」 一瞥もくれずに、すたすたと先を行く横顔は病人には見えず、その気丈さに舌を巻く。 「それに、私に何かあれば貴方が対処してくれるんでしょう?」 「…そうだーーー」 「それなら、行きますーーー」 「それならじゃない」 「…」 「無視するな」 「…」 「無視するなよ、俺の狙いはお前だ」 「………」 ちらりと忌まわしげな一瞥をくれただけのアロに根負けした俺は、床の酔っぱらい達を踏み越えて祝宴に戻る彼に黙ってついていった。 大広間の王の元に奴隷を送り届けてから、宴席の馬鹿騒ぎに紛れながら彼らを眺めた。 その後、アロは離席のたびに従者を確保したが、酔いどれの宦官では頼りなく、結局俺が距離をおいて見守った。 たまに目が合うと、アロはしつこいやつだと言わんばかりに目をそらした。 「あの奴隷に何かしましたか?」 全て穏便に処理をした、と簡潔な報告をくれた後で、ガイが俺を訝(いぶか)しんだ。 「まさか!丁重に扱ったしそうしてる」 「恩人の貴方を厭(いと)っているように見えます」 「恩もクソもない、あいつにとっちゃここはただの地獄だ」 「…」 「具合が悪いらしいが、タフなもんだ」 「随分と気にかけられていらっしゃる」 「…当然」 「随分とお気に召したようでーーー」 「今更だよ」 「さようですか」 結局、王が退席した夜中まで彼らを眺めた後で、後宮に戻るアロを見届けた。 彼の館の前で振り返ったアロは、2区画離れた所にいた俺を見つけると小さく礼をして、扉の奥に消えた。

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