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第五章 恋の鼓動と開く心32
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陽太と榎本くんのいる場所は、目の前だけど適度に距離のあるところだった。それなりに遠くにいるものの、ふたりが嬉しそうに笑っているのがわかるだけで、俺までつられてほほ笑んでしまう。
行きの飛行機で、陽太が笑いながら編集していた音源は、きっと佐伯絡みのものだろう。榎本くんの顔がしあわせに満ち溢れているのが、その証拠だ。
(陽太とはこんなに離れているのに、不思議と心がポカポカする。彼の嬉しいって感情が、ここまで伝わっているみたい)
「悠くん、とても楽しそうだけど、ソフトクリームが手の甲に垂れているよ」
聞き慣れた呼び名で、背後に誰がいるのか瞬時に理解してしまった。一瞬で緊張したことにより、ほほ笑みが見る間に崩れていく。
(振り返るのが怖い……だけどこのままでいたら、なにをされるかわからないし)
壊れかけた機械仕掛けの人形のような、ぎこちない動きで振り返る。太陽を背にしているせいで、顔が見えなかったけれど、体つきや声でその存在が大好きだった幼なじみだと認識した。
「やぁ、久しぶりだね」
短く切りそろえられた智くんの漆黒の髪を6月の爽やかな風が揺らし、ダークグレーの一重の瞳が懐かしそうに俺を眺める。高槻学園の校章になってるシルバーネックレスが、初夏の陽で眩しいくらいに光り輝いた。
「智くん……」
なんとか絞り出した俺の声は、ずいぶんと酷いものだった。それなのに智くんは呼ばれたことが嬉しかったのか、背後から颯爽と移動してベンチに腰かける。
久しぶりに間近で見た彼の顔――中学生のときよりも、随分と大人びて見えた。
「悠くんは昔から、ぼんやりするコだったからな。そんなところも俺は、かわいいって思っていたんだよ」
なにをされるかわからない恐怖で固まる俺に向かって、大きな手が伸ばされる。そのことに体が竦みあがり、両目をぎゅっと閉じる俺を見ているのに、智くんはソフトクリームを持ってる左手首を掴みあげて、手の甲に舌を這わせた。
「ヒッ!」
皮膚に感じる智くんの舌先に過去の出来事がフラッシュバックし、ゾクリとした悪寒が背筋を走り抜ける。
「さすがは、ゴディパのチョコ入りソフト。濃厚なチョコなのに、ミルクのクリーミーさが負けてない」
「……俺、もう食べないからあげるよ」
掴まれた手首に力を入れて、智くんの前に差し出す。すると、そのままソフトクリームを食べはじめた。
「智くん、自分で持って食べてくれないかな」
「こうしていると、昔を思い出してね。小食な悠くんは食べかけを、俺によくくれたなって」
「俺も昔のことを思い出してる。だから手を放して。助けてくれって言われる前に!」
泣き出したくて堪らなくなってきたけど、それを必死に我慢して告げたら、智くんは俺を掴んでいる手首を解放し、ソフトクリームをやっと持った。
「悠くんにずっと謝りたかったんだ。親同士の取り決めで、逢うことができなかったろう? だけど直接、どうしても謝りたかった」
そう言った口が、僕のあげたソフトクリームを瞬く間に平らげる。さっき隣で陽太も同じことをしたのに、なぜか智くんのした行為が意地汚いものに俺の目に映った。
「姉ちゃんが警告したでしょ。高槻の学校でわざわざ智くんを探して注意したはずなのに、修学旅行先まで追って来るなんておかしいよ」
俺の右側に座った智くんに見えないように、スラックスで左手の甲を拭った。何度も何度も――。彼に舐められた感触や唾液の成分が残っている気がして、拭わずにはいられない。
「それでも俺は、悠くんに謝りたかったんだ。あのとき襲ってごめんって。アルファのラットの衝動に、どうしても抗えなかったんだ」
「アルファのラット?」
聞き慣れない言葉が口を突いて出た。
「アルファの発情期のことだよ、悠くん。オメガのヒートにあてられて誘発したり、相手が好きすぎて自動的に起きてしまうときもある」
「それって――」
「うん、中学生のときに悠くんを襲ったあのときだ」
(――ということはアルファの陽太も同じように、ラットになるってことなんだな)
瞬間的に導き出したそのことで、気持ちがものすごく落ち込んでしまった。陽太の傍にいたら、ポカポカして居心地がいいと思っている俺とは違い、陽太はラットになってしまう可能性で、苦しんでいるのかもしれない。だから昨夜は、寝る場所を変えたのだろう。
陽太は俺の嫌がることを絶対にしない、そんな優しい人だから。
「悠くんはベタだから知らないだろうけど、アルファ同士のカップルで、アルファをオメガに転換することができる、ビッチングっていうのがあるんだ」
「…………」
「オメガにしたいアルファのうなじを噛んで、アルファの強いフェロモンを相手の体の中に溶け込ませるんだよ」
得意げに説明した智くんは、長い足を格好よく組んでみせる。そういう言動がいちいち目につき、彼のことがもっと嫌いになった。
「だからあのとき、俺を噛んだの?」
だからベタの俺をオメガに変えたかった智くんは、血が出るくらいに俺を噛んだということなのか。
「ビッチングはアルファにだけ有効なんだ、ベタにはまったく効かない。それでも噛まずにはいられなかった。俺の愛と執着を悠くんの体に溶け込ませて、好きになってもらいたかったからね」
ダークグレーの瞳が、射貫くように俺を見つめる。このまま近くにいたくなかった俺は無言でベンチから立ち上がり、智くんと距離をとった。
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