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第五章 恋の鼓動と開く心34
「……陽太、いつラットになったの?」
震えた声で訊ねた俺に、切なげな笑みを浮かべた陽太。
「……悠真が図書室に作った、読書スペースに招いてくれた日だよ」
告げられたセリフで思い返してみる。あの日、陽太が俺に抱きついたことはあった。でも智くんのような異様な気配は、そこにはまったくなかった。
(あのときの陽太は、ちゃんと理性を保っていたんだ……)
「その日は、陽太と図書室でふたりきりだったよね。不意に俺に抱きついて……それ以上、なにもしなかったじゃないか」
「わかってた。悠真の心が、まだ俺に向いてないってこと」
陽太はほほ笑んでいたけれど、その瞳には確かな痛みが滲んでいた。
「それでも、無理やりなことは絶対にしたくなかった。悠真の笑顔を見たら……我慢することなんて、当たり前だったんだ」
(――やっぱり陽太は、俺を傷つけないように大切にしてくれる)
「西野くんは、そのときなにもしなかったかもだけど、今後どうなるかわからないよな?」
「五十嵐さんのせいで、悠真の心のキズは相当深い。それを癒しながら愛を育みつつ、我慢するつもりだ」
「我慢するって言ったって、どうせそのうち抑えきれなくなる。悠くんを手に入れたいって気持ちが爆発して、結局――!」
「絶対に、そんなことはしない!」
らしくないくらいに、陽太の声が震えた。怒りとも誓いともつかないその声が、俺の胸を強く打つ。
「悠真は俺にとって守りたい、大切な恋人なんだ。傷つけるくらいなら、俺は自分の気持ちを押し殺す方を選ぶ」
「そんなの、嘘だ!」
「……智くん、もうやめて」
陽太の隣でそう告げると、自分の声が思ったよりも冷えていたことに気づいた。胸の奥にずっと沈んでいた言葉が、やっと外に出た気がした。
「俺ね智くんのこと、ずっと許せないでいたんだよ。ずっと怖くて、言葉にできなかったけど……あのとき、俺が智くんに襲われたときどんな気持ちだったか、わかってほしいなんてもう思ってない」
俺の告げた言葉に、智くんの顔が動揺に揺れる。けれどすぐに表情が薄皮を剥がすように剥がれ、空白のような笑みに変わっていく。
「そういえばさ、悠くんが俺を避けるのって、ずっと前からだったよね」
やけに乾いた声だった。俺はなんて答えようか考えていると、智くんは言葉を続ける。
「でも、あのときまでは違った。俺の話をちゃんと聞いてくれたし、毎日一緒にいた。あれは……全部、嘘だったのかい?」
「嘘じゃなかったよ。でも変わったんだ。俺が襲われて壊れたせいで。智くんのことを信じられなくなった」
「じゃあ壊れた悠くんを、俺がずっと守っていればよかったのかい?」
吐き出すような言葉に、陽太がぴくりと肩を動かす。けれど、俺は陽太の手をぎゅっと握り返したまま、しっかり前を見据えた。
「智くん、それは“守る”って言わない。壊れた俺を、自分のものにしようとしてるだけだよ」
智くんの瞳が、滲んだ光を帯びた。けれど涙は流れない。ただただ、感情の出口を失ったような顔に見えた。
「西野くんのどこがいいんだよ。俺より頭がいいわけでも、顔がいいわけでもないのに……フェロモンだって、悠くんには効かないくせに!」
言葉の端々が、見事に崩れていく。手にしたはずのものが音を立てて割れていくことに、ようやく気づいた人間の顔だった。
「陽太は、俺を踏みつけたりしなかった。無理やりもしない。ただ一緒にいてくれた。それだけなのに、俺はそれが嬉しかったんだ」
「わかんない……わかんないよ、そんなの!」
智くんの声がどんどん小さくなっていく。怒鳴り声ではなく、か細く擦れた独り言のような響きに変わっていく。
「悠くんの全部を、俺だけが知ってると思ってた。誰よりも大切にできるって……それだけがずっと俺の――」
そこまで言ったところで、彼はふっと口を噤んだ。ダークグレーの瞳は開いたままなのに、もうどこも見ていないような顔。なにも届かない、なにも返ってこない。その妙な静けさに、俺は息を飲むしかなかった。
「……五十嵐、先生に呼ばれてるぞ」
陽太の後ろから高槻学園の制服を着た男子がひとり、困ったように声をかける。それなのに、智くんは反応しない。
しばらくしてから、ゆっくりと手を振り払うように背を向けた。まるで、なにかを諦めたような歩き方だった。
一歩、また一歩と遠ざかっていく。小さな背中になって、とうとう姿が見えなくなったとき、俺の体からようやく力が抜けた。
「悠真、もう大丈夫だ」
陽太がぽつりと呟いたその声に、俺はやっと呼吸ができた気がした。握ったままの手に、少しだけ力を込めて、陽太を見上げる。
「陽太……ありがとう」
「俺、悠真の傍にいていいんだよな?」
その問いに、俺は迷わず頷いた。さっきまで凍っていた胸の奥が、少しずつあたたかくほどけていく。陽太なら俺を大切にしてくれる存在で、信じられると思った。
「あのね陽太、少しだけ休んでから、計画していたところを見ていいかな。やっぱり疲れてるみたい」
「わかった。落ち着いたらコンビニに寄って、飲み物でも買おうぜ」
ふたり並んでふたたびベンチに腰かけて、大通公園に咲き乱れる花壇の花を見ながら心を落ち着けたのだった。
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