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第六章 恋のはじまりと揺れる未来8

***  夕暮れの街を並んで歩き、駅前に辿り着く。人通りは多いのに、不思議と世界には俺と悠真だけしかいないように感じられる。 「……今日、短い時間だったけど楽しかったな」 「うん。お昼にパンを食べただけなのに、すごく特別だった」  悠真が笑う。その柔らかい笑顔に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。  改札の前で、自然と足が止まった。別れの時間が来てしまったのだとわかっていても、どうしても一歩が踏み出せない。 「じゃあ……」と口にしようとした俺より先に、悠真が視線を伏せて小さく言う。 「俺、まだ帰りたくない」  その囁きがあまりに素直で、俺は思わず笑ってしまった。 「奇遇だな。俺も同じことを思ってた」  けれど時間は容赦なく進む。どうしても今日は、ここで別れなきゃならない。だから俺は、名残惜しさをごまかすように言った。 「じゃあさ、夏休みの宿題。苦手な英語の長文、実は全然やってねぇんだ。明日、俺の家で一緒にやらね?」 「えっ……」 「俺、悠真とならサボらずにできるから」  本当は勉強なんて、二の次だったりする。けど、ふたりが会う理由にはちょうどいい。  悠真は目を瞬かせたあと、ふわっと笑った。 「だったら俺も、数学がまだ途中なんだ。明日、交換で教えてくれると助かるな」 「おっけー。決まりだな」  そう言ってつないだ手に力を込める。名残惜しくて、今すぐにでも引き寄せたくてたまらない。それでも勇気は出せず、ただ手を離す間際、指先をほんの少し絡ませる。 「悠真、じゃあまた明日」 「……うん。また明日」  改札をくぐろうとする悠真が、振り返って小さく手を振った。俺も思わず同じように返す。  二度目、三度目と振り返る悠真の姿に寂しさが募り、逢いたい気持ちが加速した。  手を離した寂しさはまだ胸の奥でじんじんしてるのに、「明日が待ち遠しい」という気持ちが上書きしてくれる。  ――また明日。そう思えるだけで、こんなに嬉しい。  翌朝。まだ悠真が来る時間には早すぎるって頭ではわかってるのに、俺は落ち着かなくて自分の部屋を行ったり来たりした。悠真が俺の家を訪ねるのは、はじめてじゃないのに、いつも以上に落ち着かないのは、昨日公園でキスしたせいかもしれない。  机の上には英語の長文プリントを広げて、シャーペンまで用意してある。……けど、集中するどころじゃない。 (――マジでやべぇ。全然頭に入んねぇぞ)  昨日の帰り際、何度も振り返ってくれた悠真の姿が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。「また明日」って笑った顔を思い出すたびに、胸の奥がむず痒くなって息が詰まりそうになる。  時計をちらりと見たのだが、約束の時間まで30分以上ある。それなのに玄関のほうで物音がした気がして、思わず耳を澄ませる。……もちろん俺の気のせいだ。 「はぁ、俺マジで浮かれすぎてるだろ……」  そう自分に言い聞かせながらも、気づけば机の上を片付け直したり、ベッドのシーツを軽く叩いて整えたりしている。  別に悠真が気にするようなことじゃないのに、妙に部屋を綺麗にしておきたくなる。  ――ピンポーン。  呼び鈴が鳴った瞬間、心臓が跳ねた。約束の時間より少し早いのに。でも、そんなことはどうでもいい。 「……来た!」  息を整える間もなく玄関へ駆け出す俺の足は、どこかふわふわしていた。ドアを開けると、少し息を弾ませた悠真が立っているではないか。 「おはよう、陽太!」  ほんのり赤い頬と、少しはにかんだ笑み。たったそれだけで、俺の胸がまた一気に騒ぎだすが、フェロモンが出ないように深呼吸を忘れない。 「お、おはよう。早いな」 「なんだか待ちきれなくて……早く出てきちゃった」  小さく呟いた声に、思わず固まる。待ちきれなかったのは俺だけじゃなかったんだ。  気づけば口元が緩んでいた。 「悠真ってば、そういうとこズルいぞ」 「えっ」 「いや、いい意味でだけどな」  照れ隠しに頭を掻きながら、俺は玄関の中へ招き入れる。 「あがれよ。とりあえず机の上、バッチリ準備してあるから」 「ふふ、楽しみにしてた」  悠真がスリッパをつっかけて、俺の部屋に入ってくる。 「あれ? 前回来たときよりも、綺麗にしてる気がする」  きょろきょろと視線を動かすその仕草に、俺は胸の奥がむず痒くなった。 「べ、別に普通だろ。たまたま、ちょっと片付けただけで」  言いながら、無意識に机の角を指で弾く。そんな俺を見て、悠真が肩を揺らして笑った。 「ふぅん。だけど前は机の上に、たくさんプリントが積んであったよね? 崩れてしまいそうな量だったっけ」 「見てんなよ、そういうとこ……テストのヤマ張りの関係で、そうなっていただけなんだって」  むくれたように言うと悠真は肩を揺らして笑いながら、上目遣いで俺を見つめた。 「ここに座ってもいい?」 「お、おう」  了承した瞬間、悠真はベッドの端に腰を下ろす。悠真の体重で沈む布団の感触に、俺の心臓まで一緒に沈んでいくみたいで、思わず喉が鳴った。しかも目の前で嬉しそうにほほ笑む悠真の笑顔に、ドキドキが止まらない。 「ふふっ……なんか、昨日の夢の続きみたい」 「夢?」 「陽太の部屋で、こうやってふたりきりで――」  言いかけて、悠真の声がしぼんでいく。その照れくさそうな横顔に、俺まで胸がじんわり熱くなった。  気づけば自然に、隣へ腰を下ろしていた。それは肩が触れそうな距離。 「俺も夢みたいに思ってた。今日ほんとに来てくれるのかって、ずっとそわそわしてたし」 「俺もだよ」  少し伏せられた声が、熱を含んで俺の鼓膜を撫でた。その「俺も」に頭の芯まで痺れる。 (――宿題。そう、宿題をやらなきゃ……)  なのに、どうしても気持ちを切り替えられない。 「悠真……とりあえず、宿題をやるか」  無理やり立ち上がって机に向かう。 「英語プリント……ほら、昨日言ってたヤツ。見事に真っ白だろ」 「うん」  悠真もベッドから立ち上がり、俺の隣に椅子を引き寄せて腰かける。距離が近すぎて、文字を追う集中力なんて吹き飛びそうだったけど、それでもこうやって肩を並べているのが嬉しくてたまらなかった。  机に並んで座り、俺はプリントに目を落として小さく唸った。 「えっと……この長文、主語がどこにあるのか全然わかんねぇ」 「陽太、んーとほら、このカンマの前が主語だよ」  俺が指で示すと、悠真も身を乗り出して覗き込んでくる。肩と肩が触れ合って、心臓がどきんと跳ねた。意識すればするほど、集中力が英語の文章から離れていく。 「悠真って、こういうとこ得意だよな」 「べ、別に普通だよ」 「これが普通とか、やっぱ頭がいいって羨ましい……」  ぼやいた俺を見てくすっと笑う悠真が、机の下で俺の膝にそっと触れてきた。 「っ……おい、なにしてんだよ」 「え? 別に。ちょっと……こうしてるとポカポカして落ち着くから」  目を逸らしながら言うその仕草が、妙にかわいくてたまらない。 「落ち着くって言いながら、俺の心臓ばくばくしてんだけど」  その内、フェロモンが爆散してしまうかもしれない。 「……俺もずっと、ドキドキがとまらないよ」  囁きのような声に、思わずシャーペンを握る手に力が入った。  そのあとも何度か指先が触れたり、プリントを取り合う拍子に手の甲が重なったり――勉強のはずが、気づけば意識の半分以上は悠真に持っていかれた。 「ねぇ、陽太」 「なんだ?」 「宿題が終わったら……もうちょっとだけ、話をしよう?」  悠真の瞳がまっすぐ俺を捉える。 「おう。約束な」  そう答えながら、机の下でそっと指先を絡めた。

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