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たった二文字

 もっと色事には淡白だったはずなのに、三晩続けて夢中になっている自分に恐怖すら感じる。  昨日も一昨日も翠を迎えに来たマネージャーとは顔を合わせないように、部屋に引きこもってやり過ごした。アルファの圧に晒されるだけでもストレスなのに、ちくちくと痛いところをついてくるのは予想できるから。幸せに浸っている、残り僅かな時間をぶち壊されたくなかった。  「置いていきたくないなぁ」  「……翠を待ってるファンの子がいるんでしょ」  「分かってるよ、それは分かってるけど、陽を一人にしたくないんだって」  「僕だって留守番ぐらいできるよ、家政夫なんだから」  「は? 何言って、」  「sui、早く。飛行機に遅れる」  信じられないと目を丸くした翠が何かを言いかけるけれど、玄関からマネージャーの呼ぶ声がそれを遮る。  「ほら、行ってらっしゃい」  「……ちゃんといい子で待っててね、約束」  僕の頭を撫でて、名残惜しそうに翠が家を出ていく。これから三日間、家主のいない部屋には僕ひとり。何もやることがなくて、暇を持て余して早数時間。ベッドの中でごろごろしながら、そろそろ一度自分の家に帰るべきなのではと思い至る。  善は急げと玄関で靴を履いていると、目の前のドアが音を立てて開いた。  「え……?」  「はぁ、やっぱりいたか」  苦々しげにそう言って頭を抱えるのは、翠のマネージャー。前に一度顔を合わせたときは、親の仇かのように睨みつけられたのに。その瞳には同情の色が滲んでいる。嫌な予感に心臓が逸る。もしかして、翠に何かあったのだろうか。  「翠に、何かあったんですか」  「ああ、君には残酷なことを言うが……。suiに運命の番が見つかったらしい」  「え……」  ガツンと頭を殴られたみたい。それほどの衝撃。何を言っているのか、壊れた脳みそじゃ理解できない。  「……すみません、もう一度お願いします」  「……suiに運命が見つかったんだ。君はもう用済みなんだよ」  「…………」  何も言葉が出てこない代わりに、ぽろりと涙がひと粒溢れ出す。覚悟できていたようで、全然だったということを実感する。  僕は翠の何でもなかったんだ。  運命の番にも、恋人にもなれない、ただのベータ。  その現実が今は憎くてしょうがない。  「君も可哀想だね、あんなにべったり甘やかされていたのに」  「…………」  「まぁ、運命っていうのは抗えないからな。お互いに惹かれ合うものだからしょうがない」  「…………」  黙ったままの僕を置いて、マネージャーは淡々と話し続ける。やめてくれ、とそう言いたいのに、震える唇からは吐息しか出てこない。  「酷なお願いをするけれど、君からsuiの元を離れてもらえるかな」  「…………ッ、」  「suiはトップアイドルなんだ。番がいるのに、別の男を囲っているなんて世間が知ったらどうなると思う?」  「…………」  「スキャンダルで、これまでのsuiの努力が全部無駄になるんだ。君は馬鹿じゃないから、ここまで言われたら分かるだろう? suiのために、君はここから遠い場所に行ってほしい」  「翠のため……」  狡いと思った。そう言われたら、僕が飲み込むしかないって分かって言ってるんだ。だけどそれを理解したところで、言いなりになることしか僕には選択肢が残されていなかった。僕が輝かしい翠の未来を潰す原因になるなんて、考えたくもなかった。  「君には住むところもお金もこちらで準備しておいた。これを受け取るといい」  「……そこまでしてもらわなくて結構です」  「そうか、君がそう言うならしまっておこう。また必要になったら、いつでも連絡してきてくれ」  そう言って、マネージャーはずっしりと重たそうな封筒の代わりに名刺を一枚差し出した。渋々受け取って、逡巡する。  「……一つだけ、お願いを聞いてもらえませんか」  「ん? 何だい?」  「……最後に、翠との時間をください。一晩だけでいいんです」  「まぁ、それくらいなら許してやろう。但し、suiも鋭い奴だからな、絶対バレないようにしろよ」  「それは、はい、分かってます……」  本当はすぐにでもここからいなくなるべきだ。だけど、翠と約束したから。それを反故にすることはできなかった。  「随分あっさり身を引くんだな」  「……僕はただのベータですから」  貴方がそれを言うんですか、って。つい口から出そうになったのをなんとか飲み込んだ。本当は僕だって、泣き喚きながら翠と離れたくないって無様に縋りついてしまいたい。  だけど、気づいちゃったんだ。気づかないフリをしていただけで、本当はずっと気になっていたことがある。  「好き」というたったの二文字で済む愛の言葉を、僕は翠の口から聞いたことがない。それってつまり……。聞かなくたって、分かる。僕の中で答えはもう出ていた。  ◇◇  「もう、何でもいいから早く抱いて」  地方から帰ってきた翠の首に手を回してそう言うと、何も知らない翠は僕がまだ発情期の猫のような状態になっているかと思ったのか、すぐに乗り気になってくれた。  よかった、最後に抱いてもらえる。思い出が増える。番ができたから、避けられるんじゃないかって不安だったんだ。でも、翠は何も番のことを話そうとはしない。僕に出ていけと言う気配すらなかった。  マネージャーの茨木さんの言った通り、僕は都合のいい性欲処理担当で、どうせなら手元に置いておこうと思っているのだろうか。翠ならもっといい人を見つけられそうなのに。変なのって、笑っちゃう。多分この時の僕は精神的にギリギリでおかしくなってた。  「気持ちいい?」  「ん、もっと」  だけどその笑みの理由を翠は勘違いして、僕が翠にやっと会えたことに喜んでいるように見えたらしい。激しくなる腰つきに翻弄されて、このままどろどろに溶けて消えてしまえたらと願ってしまう。  あーあ、出会った時からやり直せたらいいのに。  最後だと分かってするセックスは、ひどく悲しくて辛いものだった。  「っ、だめだめ、」  「んー?」  「っ、もう、イッちゃうから、」  「いいよ、いっぱい気持ちよくなって」  この数日で僕の弱いところを知り尽くした翠は的確にそこを攻めてくる。鍛え上げられた筋肉質な背中に腕を回す。本当はずっと、この腕の中にいたい。そう願っても叶うことはないって分かっているから、切なくて涙が溢れた。  翠の全ては、僕じゃない誰かのものになってしまった。だから早く、明け渡さないと。  「おねがいっ、翠、」  「なぁに?」  「ん、中に、出してっ」  「ッ、」  「          」  理性を失って、余計なことを口走った気がする。記憶が曖昧ではっきりとは覚えていないけれど、中に出してとせがんだことは覚えているのにどうしたって思い出せない。どうせなら全てを忘れていたかった。  ベータの僕は孕めないのだから、出されたところで何も変わらない。虚しくなるのは分かっていたのに、どうしても翠の痕跡を僕の中に残してほしかった。  「……陽、」  「っ、すき」  ずっと言わないようにしていた、最初で最後の愛の告白。それを聞いた瞬間、翠がふわりと花が開くように笑った。あまりにも嬉しそうに、幸せそうに。だけど、返ってきたのは口付けだけで、やっぱり翠から欲しいと思っていた言葉は何一つ聞こえてこなかった。  ――僕じゃなかったんだ。  愛されているんじゃないかって思っていたのは、ただの傲慢な錯覚だった。  そりゃ、アイドルだもん。それがお仕事みたいなもんだ。「好き」なんて、言われ慣れているよね。騙されたというか、翠にはその気すらなかったというのが恥ずかしい。僕が勝手に勘違いしただけなのに。  さよなら、僕の大好きな人。  運命の番と幸せになってね。  心の中でそう呟くと同時にぎゅうっと力強く抱き締められて、僕の瞳からは一筋の涙が流れ落ちた。

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