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傀儡

 この空は彼に繋がっているのに、一緒に同じものを見ることはもう二度とできない。ゆったりと流れてゆく雲も、ピンクと紺が混ざった綺麗な夕暮れも、彼の元にたどり着く頃には姿かたちを変えているから。  せめて、彼の見上げる空がいつも晴れだといいなと思う。スポットライトを浴びて輝くアイドルに雨なんて似合わない。キラキラと眩い光で世界中を照らしてほしいと、そう思った。  田んぼの畦道を通り過ぎたと思ったら、数分後にはガラス張りの真新しいビルが建ち並んでいる。快晴の街があれば、どしゃ降りの雨が降り注ぐ町もある。窓の外の風景は凄いスピードで変わっていくのに、僕の心はあの無機質な部屋に置いてきぼりのままだった。  始めは物珍しくて窓の外を眺めていたけれど、どんどん翠から遠ざかっていくことを実感して胸の奥が軋んで見るのを止めた。  今朝、翠が仕事に出た隙を見計らって、夜逃げするみたいに家を出た後は茨木さんが手配してくれていた特急列車に乗るだけだった。テーブルに置いた一本の鍵をぼーっと見つめていると、後悔が押し寄せてくる。  ……こんなもの、やっぱり貰うべきではなかったかもしれない。  その鍵は何度も断ったのに聞き入れようともせず、出発する前に再び茨木さんが強引に手渡してきたもの。翠がいない間、毎日欠かさず僕の様子を見に来た茨木さんはきっと僕が勝手なことをしないよう、監視していたのだろう。  軽いリュックの中には、信じられないほどの金額が振り込まれた通帳が入っている。恩着せがましい人だ。出て行けと命令するなら、捨て置いてくれればよかったのに。着の身着のまま、何の宛もない遠い地に放り込むのは流石に僅かばかり残された良心が傷んだのかもしれないけれど。  働いてもいない、大学を中退したひとが借りられる家なんて限られているのは理解している。僕のような平凡以下のベータが食っていけるだけの金を稼ぐのも一苦労だと分かっている。  だけど、プライドが許したくなかったのだ。そんなところまで大人の力を借りなければいけない、何にも持っていない惨めな自分自身にまたひとつ嫌悪の理由が増えた。彼のことをまるでモノみたいに扱って、対価として金銭を受け取ったという事実が僕を苦しめる。  茨木さん曰く、どこに住んでいるのか分かっている方が都合がいいからとのことだけど。そこまでしなくたって、もう僕は翠に会うつもりなんてないのに。結局、一度は断ったくせに押し切られた自分が悔しくて堪らなかった。  ズキンと酷く胸の奥が痛むのは、きっと祖父母に会うことももうなくなるから。あの街のすべてにさよならをしたから、ただ今は名残惜しくて、寂しいだけ。そう、これは歴としたホームシック。何度も何度も自らに暗示をかけて、幸せだったあの日々に蓋をする。  大好きだった人のことは、もう、思い出さない。  「ごめんね」も「さよなら」も、本当は伝えたかった最上級の愛の言葉も。結局、何ひとつ伝えることができなかった。だから勝手にいなくなる自分のことなんて、彼も薄情だと忘れてしまえばいい。  そう言い聞かせるのに、まるで半身をもがれたように痛む心が狂ったように叫んでいた。彼を置いていくなと、必死に訴えていた。  ◇◇  電車をいくつも乗り継いでようやくたどり着いたのは、海と山に囲まれた小さな街。都会とは違う、自然に囲まれた楽園のように見えるここは僕にとって監獄に等しかった。空港も港もあるし、新幹線だって停まるのに、僕はこの街から抜け出す術を持っていないのだ。  聞き慣れない方言、これまでとは少し違う文化。それは僕をホームシックにするには十分すぎるほど異質で、だけど出会う人が誰も彼も親切なことだけが唯一の救いだった。  こじんまりとしたアパートの二階の角部屋。そこが僕の新しいお城になった。  隣人は優しい老夫婦。引越しの挨拶に伺ったとき、つい祖父母を思い出して涙ぐんでしまった僕を家に招き入れて、和菓子と温かい緑茶でもてなしてくれた。引っ越しシーズンでもないのに突然やってきた、いかにも訳ありな若者が気になるだろうに何も事情を聞いてこない、その心遣いがありがたかった。  カーテンを開ければ、港が見える。  キラキラと太陽の光を反射して、水面がゆらゆらと揺れている。フェリーや漁船が行き交っているのは活気がある証拠だった。  船が通った後にできる白線が深い青に時々化粧を施すけれど、少し目を離した隙に気づいたら消えている。それをなんとなく寂しく感じた。    何もする気になれない僕は、いつしかぼーっと海を眺めるのが好きになっていた。寄せては返す波を見つめていれば、それだけで気持ちが凪いた気になって、自然と溢れる涙を拭うのも忘れてしまう。  同時になんとも形容し難い気持ちになった。不快なほど苦くて、チクチクと絶え間なく何かが心に突き刺さる。それを孤独というのだと教えてくれる人は、僕の周りにいなかった。あの人は、もういないのだから。  大型客船が数日停泊している間は特に憂鬱だった。それはきっと、行先があの街だって分かっているから。自分もこの船に乗って、彼に会いに行ければいいのに。嫌でもそんな風に考えてしまって、眠れない夜をいくつも過ごした。  都会の空は星がなかなか見つからなくて、光っているものがあったと思ってもそれは大概飛行機だったりする。だけど、この街は違う。満天の星々が濃紺の空に散りばめられている。それを見るのは心苦しくて、侘しくて。淡白の雲に隠されている間は少しだけ息がしやすかった。  朝日は目に染みるから嫌いだ。夕日よりもずっと、生気を奪っていく気がする。日が沈んだのはついさっきのことなのに、もう新しい一日が始まってしまう。彼の元を離れて、一体どれだけの月日が経ったのだろう。嗚呼、今日も憂鬱だ。  義務のように必要最低限の栄養を摂り、ただ気絶するように眠りにつく毎日。人と会話する機会もほとんどなくなって、表情筋は働くのをやめてしまった。肌は荒れているし、髪だってボサボサ。もう自分がどうやって笑っていたのかすら、思い出せない。  生きる気力を失った人間は、とことん落ちていく。美味しい、楽しい、嬉しい。そんな感情が抜け落ちてしまって、何のために生きているのか分からない日々。こんなの、ただの傀儡だ。  これがあと何十年も続くのかと考えると、もう、ここでこの命を終わらせてもいいんじゃないかとさえ思ってしまう。  海に沈んでしまえば、潮の流れに乗って彼の元までたどり着けないだろうか。たとえこの身が朽ち果てても、最後にたどり着けるのが彼ならばそれもありなのかもしれない。……なんて、静かな夜に似つかわしくないことをいつも考えていた。  正常じゃないメンタルだって、その判断すらできなくなって、浮かんでは消えていく答えのない問題に苦しめられる。自覚していないだけで、限界はもうすぐそこまで来ていた。

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