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拠り所

 そんな変わり映えのしないモノクロの日常が色をつけたのは、彼と離れておよそ二ヶ月が経とうとしているときのことだった。  ある朝、海鳥の鳴く声に起こされて目を開けると、妙に身体が熱くてだるい。最初は、不摂政な日々を送っていたから風邪をひいたのだろう。むしろ今まで病気にならなかったのがおかしいのだから、やっと体調を崩したのか。これぐらいの罰は当たって当然だと、そこまで深刻には考えていなかった。  体だけは昔から丈夫で、風邪なんて寝ていれば勝手に治っていたから今回もそうだろうと思って数日過ごしてみたけれど、一向に体調はよくならない。  寝るだけじゃ駄目かと、なんとか力を振り絞って栄養を摂ろうにも、匂いを嗅いだだけで吐き気がこみ上げてきて口に含んで飲み込むこともできなかった。  こんな時に頼りになる人が誰もいない。心細くて、どうすればいいのか分からなくて、目に涙が浮かぶ。  「っ、会いたい……」  会いたいよ。ここに来てから、何かがずっと足りないんだ。心が渇いて、今にもバラバラに砕け散ってしまいそう。ぽろぽろと零れ落ちる涙を優しく拭ってくれる彼は、もういない。  強がって必死に平気なふりをしていたけれど、一度溢れたものはなかなか収まらなくて、自分がまだまだ弱いことを思い知る。  こんなんじゃ、駄目だ。まだあの人を求めているようじゃ。そう言い聞かせるのに、痛みを増す頭の中ではあの人がセンターを陣取って、その場を譲ろうとはしない。  なんとかスマホのアプリでタクシーを呼んだ僕は、迎えが到着するまでの間、ぐずぐずと泣いていた。なんとか涙を収めて、やってきたタクシーに乗って近くの総合病院に向かう。    症状を説明して内科の先生に問診されるが、全てを聞いた先生は難しい表情をして「うーん……」と唸っていた。ただの風邪だと思っていたけれど、そんなに深刻な病気なのだろうかと身構える。  「プライベートなことに首を突っ込んで申し訳ないんですが、言い難いことを聞いてもいいですか?」  「……はい」  「まず、春崎さんはずっとベータとして生きてきた。そのことに間違いはないですか?」  「…………はい」  なんてことない確認が今はぐさりと心臓に突き刺さる。  「では、アルファの恋人がいますか? もしくは、最近までいましたか?」  「ッ、」  「……離れちゃったんですね」  彼は僕の恋人ですらなかったのだけれど。思わず息を飲んだ僕を見て察したのだろう、憐れむような表情になる先生。呼吸が浅くなる僕の背中を擦りながら、看護師を呼んだ。  「大丈夫ですよ、ほらゆっくり息をして」  「っ、は、い」  「大丈夫大丈夫、貴方は何も悪くないですから。ただ、春崎さんの体調不良の原因は僕の専門外なので、もっと詳しいバース専門の先生を紹介しますね」  内科じゃなくて、バースの専門?  疑問を浮かべながら看護師の後についていけば、柔らかな雰囲気の先生の元へ通された。  「さてさて、春崎さんはと……。ふむ、なるほど」  内科の先生が書いた書類を見て頷いた先生は、椅子に腰掛けるよう、僕に言った。  「春崎さんは、十四歳と十七歳の時にバース診断を受けられていますよね?」  「はい」  「では、その精度がどれだけ高いか、ご存知ですか?」  「確か、九十九パーセント?」  「そうです。医療の進歩もあって、皆さんが学生時代に受けられる診断結果にほとんど間違いはありません」  この国では、二度のバース診断が義務付けられている。一回目で出た結果からほとんど変わることはないが、念には念をとのことで二回診断すべきとされている。  そう、だから僕はずっとベータと言い張ってきたのだ。どこにでもいる、平凡で面白味のないただのベータ。それが僕の第二の性だった。  これまでも、これからも変わることはない。だからこそ、僕は一生に一度の恋を捨てた。  アルファとベータ。トップアイドルと一般人。格差しかない恋愛なんて、未来がないから。  「少し項を見てもいいですか?」  「はい……」  くるりと椅子を回転させて、先生に背を向ける。少しよれたTシャツの首元を掴んで、そこを露わにされた瞬間、嫌悪感に包まれる。僕が項を見せるべきはこの人じゃないだろ。そう、呼吸を荒くする僕にすぐに気づいた先生はパッと手を離した。  「これはまた珍しい……」  そんな独り言をこぼす先生が椅子を戻して、再び先生と向き合う形になる。  「結論から言いますね」  「はい」  「春崎さん、貴方はベータからオメガにバース転換されています」  「え……」  開いた口が塞がらない。混乱を極めた頭の中はぐちゃぐちゃで、これは夢なんじゃないかと思ってしまう。  だって、こんなのって……。嘘だ、そんなわけがない。だって、ずっと、ベータとして生きてきたんだ。今更オメガだって言われて、「はい、そうですか」ってすぐに受け入れられるわけがない。  「ごく稀にあるんです。特に強いアルファ性を持つ者は、番いたいと思った相手をオメガ性にする力があると、最近の研究結果で分かりました」  「…………」  「だから、春崎さん、貴方はちゃんとお相手から愛されているんですよ」  「……ッ、」  嗚咽が漏れる。ぼろぼろと溢れる涙が床を濡らしていく。  先生はそう言うけれど、彼には運命の番がいる。先生の言う通り、たとえ彼が僕に好意を抱いていたとしても、運命には抗えない。オメガになったからといって、捨てられる運命は変わらない。  ……今更、何も変わらないんだ。  絶望の淵に立たされた僕の心境を知らず、先生はティッシュを手渡しながら話を続ける。  「そして、本来の来院理由は突然の体調不良でしたね」  「…………」  「話を聞いて判断するに、体調不良の原因は妊娠ですね」  「そ、んな……」  ここに新しい生命が宿っているというのか。  薄い腹を撫でても、何も感じない。全て嘘でしたと言ってくれた方がまだ信じられる。  「俄には信じ難いですよね。自分の目で見てもらった方が早いので、こちらへお掛けください」  そう言って示されたのは、内診台。  困惑したまま、指示通りに動けばすぐにエコー検査が始まる。  「ほら、こちらを見てください」  モニターに表示された、白黒の映像。  確かにそこには小さな小さな生命が存在していて、必死に生きようとしていた。  「っ、うぅ……」  「かわいいですね」  「は、い……」  涙ながらに頷く。  かわいい。愛おしい。さっきまで流していた涙とは違う。心の中がほんわりとあたたかくて、優しい気持ちになる。  彼を失って、僕にはもう何も残されていないと思っていた。生きる意味も希望も失って、存在意義すら分からなくなっていた。  だけど、この子がいる。  最愛の人が最後に残してくれた、最高の宝物。  僕はこの子のためだけに、生きていく。    ……生きなくちゃいけない。  親をなくす悲しみは、僕が一番理解しているから。まだまだ人として未熟だし、片親になってしまうけれど、誰よりも愛情を注いで頑張るから。  「……春崎さん、この子を産みますか?」  「ッはい、産みます。産ませてください……」  「もちろんです、一緒に頑張りましょう」  「……お願いします」  ごめんね、翠。勝手に貴方の子を産むと決めて。  でも、認知しろとは言わないから。  貴方から隠れて生きていくから、どうか許して。  僕の拠り所は、もう、この子しかないのだから。  ◇◇  それまで適当な生活を送っていたのが嘘のように、僕は我が子のために健康第一を心がけるようになった。食が細くなっていたせいで胃が小さくなっているのか、食べることは苦手だけど、これまでろくに栄養を与えられなかった分を取り戻すように、僕は襲い来る吐き気と戦いながら必死に食べた。  必死に、生きようとしている。  全てはこの子のために。  月明かりが照らす中、ベッドに寝転んで母子手帳を掲げる。肌身離さず持ち歩いているそれは、僕にとってお守りのようなものだった。  定期的に訪れる病院でエコー検査をする度、少しずつ成長している様を実際に見るとほっとして涙が溢れた。よかった、このまま何事もなく、すくすくと成長してくれ。心から、そう思う。  まだまだ誕生は先なのに気が急いてしまって、赤ちゃん用の通販サイトを見ることが増えた。この子に不自由な生活はさせたくない。あの茨木さんから貰ったお金じゃなくて、自分が働いたお金で買ってあげたい。そのためには今から少しでも稼がなきゃと、在宅でできる仕事を見つけて働き始めた。  「おはようございます」  「おはよう、今日もいい朝ね」  ある朝ごみ捨てに出た際、隣に住むおばあさんにばったり出会した。初めて自分から挨拶すれば、優しそうな目を細めて話しかけてくる。  「陽くんが元気になってよかったわ」  「……それは、その、ご心配をおかけしました」  「いいのよ、何もできないかもしれないけど、いつでも頼ってちょうだいね」  「えと、あの、実は……」  自分に何かあった時、誰も身寄りがいないこの街で唯一頼れるのは、医者の先生を除くと、この老夫婦しかいないと思った。  どんな反応をされるのかと怯えながらも打ち明けようとすると、何かを察したおばあさんに手を引かれる。  「ちょうど美味しいお饅頭をいただいたところなの。一緒にどうかしら?」  「……はい、お邪魔します」  初めてこの地を踏んだときと同じ、あたたかくてほっとする部屋。眼鏡をかけたおじいさんは窓際の椅子に座って新聞を読んでいたけれど、僕を確認すると腰を上げて急須を取り出した。  「陽くんが家に来るのも久しぶりだなぁ」  「そうなんです、せっかくだからたっぷりおもてなししないと」  「あの、突然来た僕なんかに、そんな良くしてもらわなくて大丈夫です」  「ふふ、おばあさんはね、若い人に構いたくなっちゃう生き物なの。私の我儘のために、受け入れてくれないかしら」  「すみません、そういうことなら……」  「おっと、謝罪はいらないぞ。ほら、熱いから気をつけてな」  あの日と同じように湯気が立つ緑茶。湯呑みを両手で握り締めて、泣くのを耐える。  何から話せばいいのか、まだ整理できていない僕を察してか、おじいさんとおばあさんはごく普通の日常会話を繰り広げている。そのあたたかさが僕の心にもじんわりと温もりを分けてくれる。  「若い人にはお饅頭よりもケーキの方がよかったかしらね」  「いえ、お饅頭も好きです」  「ほんと? それならよかったわ」  にっこり微笑んだおばあさんからお饅頭を受け取る。一口頬張ると、その優しい甘さに強ばっていた体からほっと力が抜けていった。  「……僕、好きだった人を置いて、ここに来たんです。全てを忘れたくて、逃げるみたいに。好きな人が僕以外の誰かと幸せになるところを見たくなかった……」  ぼそぼそと小さな声で話し始めた僕の背を、おじいさんが優しく擦る。  「少し前までずっと、引きずってました。自分の半身を失ったみたいに苦しくて、生きる希望も未来も、何にも見えなくなってました」  「たった一人で頑張ってきたのね……」  慈しむような目で見られたら、もう、駄目だった。この街は、僕を孤独にする。誰も僕のことなんて知らない。気にも留めない。このまま誰の記憶にも残らず、亡霊のように命をすり減らしていくのだと思っていた。  年季の入った机に、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。何も言わずにティッシュの箱を差し出してくれるのがありがたかった。  「でも、先日病院に行って分かったんです。こんな僕の元に赤ちゃんが来てくれたって」  「まぁ……」  「ちゃんとここで一から頑張ってみようって、やっと前を向けました。だけど、もし僕に何かあったら……、この子を助けてあげてくれませんか? 無茶苦茶なお願いをしてるっていうのは理解してます。でも、」  「陽くん、大丈夫だよ。まずは、おめでとうだね」  「家族が増えるのは嬉しいことね。もちろん、何もなくても私たちを頼ってちょうだい」  いつ頃産まれるのかしら。楽しみね。と笑い合う二人を前に、僕は声を上げて泣いた。こうしてちゃんと話すのは二回目だというのに、どうしてこんなに良くしてくれるのだろう。  「陽くんは自分の体のことを第一に考えなさい」  「不安になったらいつでも家に来ればいい」  「っ、ありがとうございます……、ありがとうございます……」  何度も頭を下げる僕を止めた二人は、穏やかで優しい表情をしていた。大丈夫。たとえ彼がいなくたって、僕はこの子と生きていける。  元々、家政夫だって一ヶ月だけの約束だったのだ。それをずるずると長引かせたのは、他でもない僕。彼の隣は居心地がよくて、次第に離れがたくなって、恋をした。だから、期限付きだってことに蓋をして、忘れたふりをしてた。  だけど、そうすべきじゃなかった。ちゃんと約束通り、一ヶ月でさよならしておけばこんな気持ちになることはなかった。  そんな後悔はこれまでだってたくさんしたけれど、今はもう過去を振り返らない。もう決別したんだ、僕は前を向いて歩いていくって決めたから。  彼と別れて、ゆるやかな自殺のように不摂政な生活を送っていたから、それがこの子の成長に悪影響を及ぼしていたらどうしようと不安に思っていたけれど、健診の度にすくすくと育っている我が子を自分の目で確認する度に心からほっとした。  元気に産まれてきてくれたら、それだけでいい。  何があっても、僕が守るから。  ああ、早く会いたいな……。  もう、独りじゃないと理解しているくせに、時折寂しさは僕を誘惑してきてどうしようもないメンタルに陥りそうになる。そんな時は、どうしても手放せずに持ってきてしまった彼のシャツを抱き締めて耐えるしかなかった。  人は誰かの記憶を失う時、最初に声を忘れるというけれど、最後まで覚えているのはその人の匂いらしい。消えてしまってもおかしくないのに、未だに彼の香りがするシャツ。捨てなきゃと思っているのに、何度もそうしようとしたのに、結局できなくて、僕の中から彼が完全に消えてくれることはないと思い知る。  だって、ずっと覚えているから。彼のぬくもりも優しさも、全部ぜんぶ、ここにあるから。  ましてや、彼はトップアイドル。  テレビをつければ彼の曲が流れてくるし、外を歩けば彼のポスターが貼られている。この世界はsuiで溢れていた。  彼を感じる度に一々動揺してしまう僕を叱るように、その度に大きくなったお腹の中でぽこぽこと動く子は産まれる前からしっかりしているみたい。  今までは彼を見つけても必死に目を逸らすことしかできなくてただ心がチクチクと痛むのに耐えるしかなかったけれど、この子が成長してからはすぐに注意をお腹に持って行かれるから僕は我が子に救われていた。  「陽くん、そろそろだね」  「はい、……待ち遠しいです」  先生とそんなやりとりをしたのが、三日前。帝王切開で産むことは決まっていたのだけれど、珍しい元ベータの出産ということもあり、大事をとって早めに入院していた。先生たちのデータが欲しいという依頼に答えたのもあるけれど、何かあった時のために一人でいるよりも頼れる先生が傍にいてくれる方が心強かった。  正直、心のどこかで彼を忘れることはできないだろうと悟っていた。手術から無事に目が覚めて、元気に泣き叫ぶ我が子と対面した瞬間に思った。この子は間違いなく翠の子だと。この子が僕の子どもでいる限り、彼を忘れるなんて、不可能だと。  「僕のところに来てくれてありがとう」  「……かわいいなぁ」  小さな命を抱えて、その重みとあたたかさにじんわりと熱いものが目に滲む。指を差し出せば、きゅと握ってくれるのがたまらなく愛おしい。僕が抱いた瞬間に泣き止んだ我が子の顔を見て、また涙が溢れた。  なんとなく、そんな予感はしていたけれど……。  ねえ、アルファの王様。貴方の遺伝子、強すぎるよ。  そう泣き笑いしてしまうぐらい、小さいのに彼と瓜二つな我が子。術後の痛みなんて、この子を見る度にどこかに飛んでいってしまった。  ――(れい)。  地獄のどん底、真っ暗闇だった僕の人生に射し込んだ、唯一無二の光。

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