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Love never dies.

 新しい春が来た。玲が産まれて、もう少しで二年が経過しようとしている。  彼に似た面影は日に日に濃くなっていき、そのぱっちりとした猫目に見つめられるとなんともいえない感情に襲われることに気づかないふりをする毎日だった。  多分、先生も老夫婦も、僕の相手が誰かなんて気づいている。こんなに瓜二つで、分からないはずがない。だけど僕の心の傷を知っているから、核心に触れるような質問をされたことはなくて、ただ「僕の子ども」として見てもらえるのが何よりもありがたかった。  だけど、もしも「suiとそっくりな子どもがいる」と噂になったら、嗅ぎつけたマスコミに写真を撮られて、すぐにスキャンダルにされてしまうだろう。それだけは絶対に駄目だ。玲の存在がバレるのが何よりも怖くて、お出かけする時は必ず帽子を被せているけれど、彼に似てオシャレさんな玲は嫌がることなく、僕の言うことを聞いてくれている。  産後はさすがにきつかったけれど、平凡なベータにしては僕の体は頑丈だったみたいで、先生たちの力を借りながら療養すればすぐに元通りに戻った。アルファ様に体を作り変えられたおかげかもしれないと、研究熱心な先生は興奮しながら話していたけれど。この子と生きていくのに支障がないのなら、理由は何だってよかった。  最近やっと慣れ始めた事務仕事をフルリモートでこなしながら、育児に励む日々。どんなに辛くても、弱音は吐けなかった。僕が生きる希望を失わずに済んだのは、玲という光が照らしてくれるから。  「まま?」  「ん? どうした?」  「だっこ」  「ふふ、おいで」  子の成長はあっという間で、すぐに玲は家中を走り回るようになった。他の子どもより発達が早いのは、きっと産まれる前から染み付いたアルファの力が作用しているのだろう。  こうして手を伸ばして甘えてくる姿がかわいくて、疲れなんてどこかに吹っ飛んでしまう。僕はきっと、あの頃よりも笑顔が増えた。「ぎゅー」と言いながら抱き締めると、玲はきゃらきゃら笑って大喜び。  「もうあと二ヶ月もすれば、玲も二歳の誕生日だね」  「ん?」  「ふふ、まだ分かんないか。たくさんお祝いしようね」  「まま、すき!」  子どもだからこそ、素直に伝えられる二文字の言葉。それは、僕がずっと欲しかったもの。  嬉しくて、じんわりとあたたかいものが胸の奥に広がるけれど、そこには一抹の切なさも混じっている。それを悟らせないように、玲の綺麗な額に口付けを送れば、玲は「きゃー」と嬉しそうに歓声を上げた。  幸せなら、ここにある。後悔だってしていない。だけど、あの時からずっと、何かが足りないんだ。欠けた心はこれから先も永遠にこのままだって分かっているけれど、僕にはどうすることもできなかった。僕の心を埋めるピースを持っているのは、世界中で唯一人、もう会えない人だから。  項の噛み跡がどうなっているのか、僕は知らない。番の証明として残っているのか。それとも、あの日確かに存在した跡は、一時的なものだったのか。確かめるのが怖くて、未だに確認できずにいる。自分は彼と何の関係もないって、改めて認識させられるのが怖かった。もう、心に深い傷を負うのは嫌だった。  ちくりと疼く項を擦りながら靴を履き、晩御飯の買い出しのため、すっかり通い慣れた近所の商店街に向かう。  好奇心旺盛な玲は気づけばふらふらとすぐにどこかへ行ってしまうから、目が離せない。手を繋いで、その小さな歩幅に合わせていると、商店街に入って四店舗目辺りで突然玲が足を止めた。何かと思って、その視線の先を追ってすぐに後悔する。  「ッ、」  「まま?」  そこは少し寂れたCDショップ。黄ばんだセロハンテープが残っているガラスに真新しいポスターが貼られていた。そこに載っている顔と文字を見て、思わず息を飲んだ。不思議そうに玲が見上げてくるけれど、それに構っていられる余裕はない。  ――sui、初の全都市を巡るコンサートツアー開催決定!  国民的トップアイドル・suiがあなたの街にやってくる。数々のアリーナツアーやドームツアーを成功させてきたsuiが、なんと今年は地方の壁を越えて全国のファンの元へ。「今年は自分から最愛の皆さんに会いに行く年にしたい」と言っていたsuiが有言実行します。  そう書かれた下にずらっとツアー日程が書かれている。来月下旬から始まるツアーはほぼ休みなく組まれていて、彼の体調が心配になるほど。他の仕事は調整できたのだろうか。茨木さんは文句言ってそうだなぁと、苦笑してしまう。  まさか、そんな大きなツアーを行うなんて知らなかった僕は、もちろんこの街にもやってくると知って、湧き上がる感情を必死に落ち着かせようとすることしかできない。  ……会いたい、会いたいよ、翠。  そう思いながら、ちゃっかり脳みそはこの街にやってくる日付をしっかりと記憶している。  六月十日と十一日。  何の運命か、それは奇しくも玲の誕生日の前日だった。  これだけの情報をむしろよく今まで遮断できていたと思う。今回だって、玲が反応していなければ僕はきっと気づいていなかった。やはり彼の血がそうさせたのだろうかと、愛し子を抱え上げる。  「ごめんね、もう大丈夫だから」  きゅるんとした瞳を瞬かせて、天使は首を傾げる。そうだ、この子のためにも強くあれ。  ……会いたいなんて、嘘だから。  僕にはこの子がいればいい。ほら、そうだろう?  偽りで塗り潰した心は真っ黒で、二年もの間ずっと救難信号を送り続けている。この痛みに早く慣れてくれればいい。そう願い続けて、時間だけが過ぎていた。  ◇◇  玲が生まれてから、あっという間に時間が過ぎていくようになった。気づけば窓の外は暗くなっていて、一日の終わりを感じてしまう。曜日感覚を失わずにいられるのは仕事のおかげだった。  どうしても僕に余裕がないときは、隣に住む老夫婦のところで預かってもらっている。本当の孫のように大事にしてもらえて、玲もすっかり懐いていた。僕に何かあったら彼らを頼るようにと、玲にはよく言い聞かせている。  「すみません、ありがとうございました」  「玲くん、今日もいい子だったわよ」  だけど迎えに行けば、ダッと走ってきて足にしがみついてくる姿に胸が痛む。文句も泣き言も言わず、聞き分けのいい玲。親としてはありがたいけれど、言いたいことすら抑え込んでしまっているんじゃないかって不安になる。  まだまだ幼い玲に我慢させてるんじゃないか。そう思う度に自分の未熟さに嫌気がさす。親が僕じゃなければ、玲はもっと幸せだっただろうな。負のループでそんなことを考えてしまって、更に卑屈になる。  「まま、だいすき」  腕の中でうつらうつらとそう言う玲を、ぎゅっと抱き締めることしかできなかった。  ◇◇  頭の中に刻み込まれた日程は、もう明日に迫っていた。海に隣接する会場は、僕たちの住むアパートからもよく見える。  「玲、公園行こっか」  「うん!」  何も手につかないほど、落ち着かない。そわそわしてしまって集中力に欠けていた。  このままだとまずい。気分転換に散歩にでも出掛けようと決めて、玲に帽子を被せる。彼がこの街に来ると知ってから、あまり公園に行っていなかったから玲も嬉しそう。  近所の公園の砂場で遊び始める玲の隣にしゃがみこむ。  「ねぇ、玲」  「ん?」  「玲はさ、……お父さんが欲しいって思う?」  「おとうさん?」  それはずっと聞きたくて、でも聞く勇気が出せなかったこと。言葉の意味が分からないのだろうか、反芻して考え込んでいるのを唇を噛み締めながら見つめる。  「まま?」  「ううん、ママじゃなくてパパ」  「んー」  「……ごめんね、変なこと聞いて。もう気にしなくていいよ」  たまたま観た歌番組でsuiを知ってしまったと、昨日、おばあさんから聞いている。瞳をキラキラと輝かせてその姿を見つめていた玲は、一体何を思ったのだろう。  誤魔化すように帽子の上から頭を撫でると、玲は普段のふにゃふにゃの笑顔を消して真剣な瞳で僕を見上げた。  「ぼくは、ままがいい」  「え?」  「ままだけいればいいよ」  この瞳を僕はよく知っている。多くの者を平伏せさせる、アルファの瞳。僅か二歳にして、このオーラ。やっぱり彼の子だと、泣きたくなった。  「まま?」  たまらなくなって、ぎゅうと抱き締めた。その瞬間、風に乗って、懐かしいあの爽やかなサイダーを感じさせる香りがしたような気がした。  ◇◇  来るな来るなといくら願っても、時間は決して止まってはくれなくて。遂に来てしまった、六月十日。  彼がこの街にいる。ただそれだけで、途端に心臓がうるさくなる。あまりにも単純な自分に笑ってしまう。  「まま、あそこ」  「ん?」  ベランダに繋がる窓の外を指差す玲。何だろうと思って近寄ると、まだまだ小さな手が示す先は彼のいる会場だった。  「っ、」  「あそこ、いきたい」  どくんと心臓が跳ねた。彼のフェロモンが全身に絡みつくような感覚に襲われる。ぶわりと身体中が熱に包まれて、あの熱い夜を思い出した。無邪気に話す玲の言葉が通り抜けていく。  どうして……。  あの日以来、ヒートに近い症状すらなかったはずなのに。先生だって、オメガなら子どもを産んでも定期的にヒートがやってくるけれど、僕はベータから転換したから例外なのかもしれないと言っていたのに。  駄目だ。こんなみっともない姿、玲には見せられない。  「玲、」  「なあに?」  「おばあさん家に行っておいで。僕が迎えに行くまで、いい子にしてて」  へたくそな笑顔を作りながら言うと、普段は物分かりのいい玲が珍しく嫌だと首を振る。  「やだ、いかない」  「玲……」  「ぼくがままをまもるよ」  小さな体で一生懸命しがみついてくる姿に目が潤む。敏い子だから、僕の異変に気がついているのだろう。だけど、これから自分の身に起きることを想像したら、愛しい我が子を引き剥がすことしかできなかった。  「お願い、玲」  「…………」  「玲の誕生日になったら迎えに行くから」  「……やくそく?」  「うん、約束する」  今日と明日が終わって、彼がこの街から去ったら玲の誕生日だ。大丈夫、そのときになったらこの熱も治まるはず。  むと唇を尖らせている玲と指切りをする。気が変わらないうちに、緊急用に準備していたリュックを背負わせて、隣の家のインターホンを鳴らした。  「あらあら、陽くん大丈夫?」  「すみません、数日玲を預かっていただけないでしょうか……」  「それはもちろん大丈夫だけど、陽くんは一人で平気なの?」  「はい、むしろ今回ばかりは一人の方が……」  そう言いかけて、咄嗟に口を噤む。じいっと僕を見上げる濁りのない純粋な瞳に気づいたけれど、時すでに遅し。  「違うんだ、玲」  「っ、」  誤解させてしまった。玲をいらない子扱いするつもりはなかったけれど、そう思わせても仕方のない発言だった。  弁解しようにも、既に玲は僕の弁明を聞かずにおばあさんたちの家に入っていってしまった。どうしようと焦る僕の肩を叩いたおばあさんが、穏やかに微笑む。  「玲くんなら大丈夫よ」  「でも……」  「仲直りなら体調を万全にしてからにしなさい」  「……はい。申し訳ないですが、玲をよろしくお願いします」  頭がくらくらしてきて、言うことを聞かない。限界が近い僕は引き下がる他なかった。  バタンとベッドに倒れ込む。僕は最低な親だ。  独りぼっちの発情期がこんなにも孤独で、辛くて、寂しいものだとは知らなかった。僕が求めているのは、ただ一人。もう会えないひと。それを頭では理解しているはずなのに、彼を求める身体の火照りも欲望も全く治まらない。  「っ、あぁ……」  自分で何度も扱いて、吐き出した白濁が手を汚す。だめ、これだけだと足りない。全然、足りない。もっと、深くまで突いて、僕を孕ませて。そんな浅ましい欲望に泣きたくなる。  久しぶりに触れる後孔はどろどろに溶けていて、彼を迎え入れる準備が整っている。自分の指を突っ込んでみても、欲しい場所には届かない。  「……すい、たすけて」  この熱を何とかできるのは、彼だけだから。ずっと口にしていなかった名前を、つい呼んでしまう。  玲を隣に預けてよかった。こんな姿、絶対に見せられない。僅かに残った理性が、過去の自分をよくやったと褒める。  そうして、何度、無意味な白濁を吐き出したことだろう。疲れきった僕は、気を失うように眠りについた。早く、翠がこの街を去ってくれることを願いながら。その手はぎゅっと、彼のシャツを握り締めたままだった。  夢の中で、今はもう会うことを許されていない、かけがえのないあの人に会った気がした。久しぶりに真正面から見る顔は少し窶れていて、涙で潤んでいるように見えた。  おかしいな、僕の記憶にある人はもう少し髪が短かったのに……。

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