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Stargazer - S
運命の赤い糸って、どこに繋がっている?
小指に結ばれた糸はだらりと垂れたまま、本当は誰にも繋がっていないのだろうか。
運命の番。それは、目と目が合った瞬間にお互いがそうだって分かるんだって。運命的に惹かれ合って、一生に一度の恋をする。
そんな関係に憧れて、俺だけの唯一に会える日を夢見てた。だけど毎日のように願ったからといって、そう簡単に巡り会えるわけじゃない。
半ば諦めにも似たものを抱えながら過ごしていたとき、春の陽気に誘われるように俺は陽に出会った。
他のオメガのように「自分を番にしろ」という強引さや欲深さを感じさせない。ベータを自称する陽の傍は、まるで陽だまりのように心地よかった。陽のフェロモンからは「僕でよかったら一緒にいてほしい」という想いが伝わってくる。控えめなお誘いがますます好印象だった。
まぁ、ベータがフェロモンを出している時点でおかしいのだけれど。そんなこと、いちいち気にしていられない。だって、陽を「そう」したのは、他でもない俺だから。陽は知らないだろうけれど、誰にも繋がっていなかった糸を、俺が陽の小指に無理やり括りつけたんだ。
確かに、陽はベータとして生まれて、ベータとして生きてきたのだろう。バース診断に間違いがあったとは、俺だって思わない。
最初こそショックだったけれど、すぐにどうでもよくなった。陽がベータ? そんなの、俺の知ったこっちゃない。陽が運命だって、出会った瞬間に分かっちゃったから。俺には陽を番にする未来しか考えられなかった。
陽を番にすると決めてからは、なりふり構っていられなかった。毎日のように項に痕を残し、フェロモンを注ぎ込む。君は俺の番になるんだ。そんなことを考えながら、日に日に濃くなっていく痕を見つめる度に、我ながら酷い執着だと自嘲した。
だけど、止めようとは思わなかった。陽を俺のオメガにするまで、湧き上がる欲望を止められなかった。
アルファの王様なら、自身の選んだ相手を番にできる。それはオメガじゃなくてもいい。ベータだって構わない。たとえ同じアルファだったとしても、ヒエラルキーの頂点に君臨するキングには勝てないのだから。
ただし、相手のバース性を転換させるにはただひとつだけ条件があった。それは、相手も自分のことを想っているということ。自分と同じように「この人と番いたい」「一生を添い遂げたい」と思っていないと、いくらフェロモンを注ぎ込んだって意味がない。
――……翠の、運命になりたい。
だから君からそう言ってくれて、天にも昇るような心地がした。
いくらでも待つつもりでいた俺と同じ気持ちになってくれたんだって、喜びと幸せでどうにかなってしまいそうだった。これからは胸を張って、この子が恋人だって、俺の番だって、そう宣言できると思っていたのに。
どうして、何も言わずに俺の元を去ってしまったの? 今、どこで何をしているの? 俺じゃない、他の誰かを選んだっていうのか?
捨てられたなんて、認めたくなかった。今更、あの柔らかな陽だまりから離れられるはずがない。陽のいなかった頃の日常なんて、とっくの昔に忘れてしまった。
優しい春はいつしか終わりを告げていて、厳しい冬がきた。パステルカラーの彩りに溢れていた毎日がモノクロに変わる。太陽を失ってから、ここは酷く寒くて凍えてしまいそうだ。
……ねえ、陽。
俺のことを「すき」だと言ったことを、俺は忘れていないよ?
だから絶対に見つけ出して、今度こそ君を離さない。この広い世界、ありふれた日常の中で俺たちは出会ったんだ。何度だって陽を見つけてみせる。残念だけど、俺からは逃げられないよ。
◇◇
あの日、俺は絶望を知った。元の孤独な部屋に戻ってしまった部屋。温もりなんて、感じられない。この街から陽がいなくなったと、本能が言っている。
だけど、その事実をなかなか受け入れられなくて、微かに残るフェロモンが唯一の精神安定剤だった。
「sui、出る時間だぞ」
眠れないまま一夜を越えて、気づいたら望まない朝が訪れていた。最近ますます疎ましくなった茨木の声が、今日は更に俺を苛立たせる。
「…………」
「いつまで、そうしているんだ。早くしろ」
「……やめた」
ぽつりと零れ落ちた言葉に、そうだと自分で頷く。こんな仕事、辞めたっていい。他人に干渉されて、自分の時間もろくに取れない。
……行かなきゃ。何百万人の笑顔よりも、俺は陽の笑顔が大切だから。元々、アイドルなんて向いていなかったんだ。仕事なんかより、俺は独りでいるはずの陽を迎えに行かないといけない。
「何を言っているんだ。今日もスケジュールが詰まっているんだぞ」
「仕事なんて、してる場合じゃない」
「はあ?」
「陽を探しに行かないと」
俺がその名を出した途端、茨木の眉がぴくりと動いた。
「探しにって、そんな時間があるわけないだろう。どうせ自分の家にでも帰ったんだ。そんなに心配するようなことじゃない。まだ大学生なんだから、束縛ばかりだと嫌われるぞ」
「……お前さ、陽に何か言った?」
「え?」
「俺、陽のこと話したっけ? 大学生だって、いつ知ったの?」
「っ、」
滲み出る威圧のフェロモンが増していく。たかがこれしきのフェロモンで屈するような低ランクのくせに、偉そうにアルファ面してるんじゃねーよ。
ベータだからこそ、俺の傍にいることにどれだけ陽が葛藤していたかも知らず、勝手に土足で踏み荒らしやがって。
「はぁ……、で?」
「…………」
「黙られても何も分かんないんだけど。陽をどこにやったの?」
「……知りません。とにかく、そんなことより今は仕事に向かわないと」
「そんなこと?」
へぇ、まだしらばっくれるつもりなんだ。やっぱりお前には、ずっと「sui」っていう商品しか見えてなかったんだね。
陽よりも大切なものなんてあるはずがないのに、馬鹿な茨木に呆れて鼻で笑ってしまう。
「もういいよ、お前。クビね」
「は、」
「さよならって言ってんだよ。俺に嘘つくようなマネージャー、いらないから」
「ちが、俺はsuiを思って、」
「俺を思って、陽に何か吹き込んだんだ? ただのマネージャーのくせに、何様のつもり?」
昔から横柄な態度を取る人だと思っていたけれど、今回ばかりは許容範囲を超えている。流石にマズいと焦ったのか、青ざめた顔で反論してくるけれど、もう遅い。
お前が何を言い訳しようが、陽の受けた傷は消えないし、俺の悲しみは拭えない。失った信頼なんて、取り戻せないんだよ。
「最後にひとつだけ教えてよ」
「…………」
「陽は、どこ?」
最後だからと美しく微笑んでみせたのに、茨木の顔に滲むのは明確な恐怖だけだった。
「…………俺は、知らない」
「頑固だね、お前も。全部管理したがるお前が知らないわけないじゃん」
「……suiの前からいなくなったのが本人の意思だったら、迎えに行ったところで帰ってこないはずだ」
ハッと乾いた笑いが溢れた。この期に及んで、まだそんなことを言うんだって、呆れを通り越して感心すらしてしまう。
「俺のことを好きだって言った子が、自分の意思でそんなことをすると思う?」
「たとえ好きだったとしても、気持ちだけではどうにもならないものがあるだろう」
「…………」
「貴方はこの国のトップアイドルで、アルファの王様なんだ。一般人のベータにはあまりに身が重い。それを理解していますか?」
「……、……」
「自分の立場を理解したら、逃げ出したくなったんでしょう」
反論しようと口を開いたけれど、何も返せる言葉がなかった。こればかりは、真正面から「そんなことない」と否定できない。そんな自分に腹が立って、ぐと唇を噛み締める。
陽がずっと自分のことを卑下してばかりで、俺の隣にいるのが分不相応だと思っていることは分かっていた。でも、それを乗り越えて、陽は俺を選んでくれたと思っていたのに……。
その考えすら、間違いだったのだろうか。いざ恋人になってみたら、陽にとってはやっぱり重荷にしかならなくて、その立場から逃げ出したくなったのだろうか。
嗚呼、目眩がする。
違う、そんなはずがないと必死に打ち消してみても、心の奥底では陽がそう思っていても不思議ではないと理解してしまっている。
立場が逆転したと思ったのか、勢いを取り戻した茨木は更に捲し立てる。
「もし、貴方が本当にアイドルを辞めるなら、あの子は自分のせいで世界からsuiを奪ったと、自分自身を責めるでしょうね」
「っ、何が言いたいんだよ」
「今、アイドルを辞めるのは得策じゃないと言っているんです」
苦虫を噛み潰したような表情の俺を前に、勝ち誇った様子の茨木は笑う。
「さあ、行きますよ。これ以上、スケジュールは待ってくれない」
クビだと言ったのに、未だにマネージャー面している憎たらしいその顔を、思いっきりぶん殴ってやりたかった。
好きな人を守ることすらできなくて、何がアルファの王様だ。結局俺は、飼い慣らされたペットと同じじゃないか。
アイドルという立場を捨てて、今すぐにでも陽の元に駆けつけて、君を力強く抱き締めたい。もう離さないよと腕の中に閉じ込めて、ずっと体温を分け合いたい。
だけど、そうしてしまったら、優しい君は一生自分のことを責めるのだろうね。いつもみたいに「僕なんかが」とそう言って、俺に見せる笑顔の裏で苦しみ続けるんだ。
『お仕事をちゃんと頑張れる翠でいてほしいな』
陽は何気なくそう言ったのかもしれないけれど、茨木に指摘された瞬間に思い出した一言。口では辞めると言いながらも、もしも本当に辞めたら陽が傷付くことは理解していた。酷いよ、こんな立場に縛り付けて。
だけど、俺の陽だまりに悲しみの雨は降らせたくない。
陽だって、離れたくないと心が叫んでいるだろうに、それでもこうするしかなかったのは、俺の力が足りなかったせいだ。
諦めることは、端から選択肢にない。
ただ、これまで強引に事を進めてばかりだったけれど、陽のことを一番に考えたら、衝動的に行動するのは駄目だと思った。
陽、今すぐに迎えに行けなくてごめんね。トップアイドルの座を守りながら、君を探して、いつか必ず迎えに行く。だからせめて、今は俺の姿を見守っていてよ。誰にも文句を言わせないぐらい、どこにいても陽に届くように輝き続けるから。
◇◇
詰め込まれたスケジュールは再調整が難しく、まるで初めから仕組まれていたみたいに、俺に自由な時間は与えられなかった。
たまに訪れる、たった一日だけの休み。二十四時間なんて移動するだけであっという間に終わってしまって、ろくに手掛かりも入手できない。
心当たりのある場所をいの一番に探し回ったけれど、陽のフェロモンはすっかりなくなっていて、彼がここにはいないということを本能が告げていた。
埒が明かない。最後まで口を割らなかった茨木は、花形の職を失ってまでそうする意味があったのだろうか。もう、あんな奴、顔も見たくないけれど。
常にイライラしている俺に、先日担当になったばかりのマネージャーは恐れ慄いている。あの後、茨木から代わったマネージャーは、これでもう三人目だ。三ヶ月の試用期間すら耐えられずに辞めていくのを、無表情に見送るばかりだった。
陽以外、どうでもいい。
陽じゃないなら、誰が何をしていても関係ない。俺の邪魔さえしなければいい。
何度仕事を放り出してやろうと考えたことか。だけど、その度にあの言葉が枷になって、俺の衝動の邪魔をした。きっとあの頃には離れる覚悟をしていて、陽は俺をアイドルという呪縛から逃れられないようにしたかったのかもしれない。まんまとその策にハマっているのだから、笑ってしまう。簡単に反故にできないのは、陽が望む「深山翠」でありたかったから。ただ、それだけ。
そうしてるうちに気づけば一年が経っていて、色褪せたままの世界で俺は孤独と戦っていた。
スケジュールは相変わらず詰め込まれたまま。そこに誰の思惑が働いているのやら、何となく裏で糸を引いている存在は察しているけれど、怒る気力すら湧いてこない。
地方まで足を運んで陽を見つけ出すためには、一日の休暇じゃ足りない。……だったら、仕事として地方に行けばいいんじゃないか。新しい春が来て、ふと思い立った。
「ねえ、社長。俺、やりたいことあるんだけど」
「suiが直々にそんなことを言ってくるなんて珍しいな」
十年以上もアイドルをしてきて、社長に直談判するのは初めてだ。上機嫌な社長にバレないようにしながらも、ニヤリと口角が上がる。
「もっとファンの方に感謝を伝えるにはどうしたらいいんだろうって考えてたら、急に思い付いたんだ。これまでは限られた都市でしかツアーをやってこなかったけど、来年は全国を回りたいなと思って……」
本音は違うくせに、しおらしくそう嘯いてみたら、案の定、単純な社長はぱあっと顔を輝かせる。
ごめんね、ファンのみんなをだしに使って。
でも、俺のことを好きなら、許してくれるよね。
そんな最低な信頼を置きながら、社長の出方を伺った。
「おお! いいね! 地方にもたくさんsuiのファンはいるわけだし、これまでは足を運んでもらっていたのが、今回はsuiがみんなの街にやってくるっていう形になるんだね」
「もし実現したら、これまで以上に頑張るよ」
「ああ、必ず実現させよう。まずは会場を押さえるところからだな。よし、その辺りは裏方チームに任せておけ」
「ありがとう、社長」
話の分かる人で助かるよ。
……なんて狡猾に思いながら、にっこりと笑う。
陽、君が今どこにいるかは分からないけれど、ちゃんと君の街まで迎えに行くから。もうすぐ会えるから、待っててね。
◇◇
事務所一の売れっ子からの珍しいワガママに社長はノリノリで乗っかって、あっという間に各地の会場が手配されていった。ドーム、アリーナ規模は何度もやってきたけれど、地方でホール規模のコンサートをやるのは初めてだ。新鮮な気持ちになりながら、慣れ親しんだスタッフたちと会議を重ねていた。
セトリも衣装も、これまで全部自分で決めてきた。陽を迎えに行くツアーだ。今回こそ、これだけは譲れない。
今回のツアータイトルは「Destiny Love」。シングル、アルバム問わず、恋愛に関する曲ばかりを集めたセットリストは、長年俺のコンサートに携わってくれているスタッフからも好評だった。
リハーサルも順調。唯一足りないのは、俺の隣に陽がいないことだけ。でも、その不満もこのツアーが終わる頃には、解消されているはずだ。
そうして始まった、全国ツアー。
最初の会場では、フェロモンの欠片も感じられなくてハズレだとすぐに悟る。一番初めの地で見つかるとは思っていなかったけれど、思いの外がっかりしている自分に呆れて笑ってしまった。
いくつかの都市を回って、早二週間。
俺は新幹線で西の街に向かっていた。目まぐるしく変わっていく窓の外の風景をぼんやりと眺めながら、陽の笑顔を思い出す。途端に胸の奥がぎゅうと締め付けられた。
陽が恋しい。
俺と君は愛し合う運命にあるのに、どうして今、君が隣にいないのだろう。
およそ三時間。切なさに胸を焦がしながらも降り立った駅のホームで息を吸って、全身がびりりと震えた。歓喜のあまり、体中の血が沸き立っている。
――このフェロモン……!
間違いない。間違えるはずがない。控えめな甘さの混じった、柑橘系の香り。俺の心をこんなに動かすのは、唯一、陽しかいない。
嗚呼、遂にたどり着いた。嬉しくって、まだ再会できたわけじゃないのに、涙が滲む。二年もの間、この時を待ち望んでいた。すーっと息を深く吸い込めば、陽のフェロモンで肺がいっぱいになる。それが全身を巡って、陽で満たされていくのが分かった。
「suiさん……?」
ホームに降り立って硬直したまま、突然涙目になる俺を見た新しいマネージャーが困惑した声で話しかけてくる。普段なら雑音だと無視するか、腹の居所が悪ければ当たり散らしているところだけど、今は気分が最高潮。俺の番に免じて、許可なく話しかけてきたことを許してやる。
「行くよ」
「は、はい!」
優しい風が頬を撫でる。やっと探し当てたんだ。もう逃しはしない。今すぐにでも風に運ばれてくるフェロモンを辿って会いに行きたいけれど、今から数時間後に始まるコンサートを放り出すことはできないから。早く、夜が来ればいいのに。
スタスタと歩き始めた俺の後をぱたぱたとマネージャーがついてくる。いつもよりも早足になってしまうのは、しかたのないことだった。
◇◇
およそ二時間半、アンコールまでしっかりとこなした後、手早くシャワーを浴びてから用意させていた車に乗って会場を飛び出した。公演が終わって、三十分も経っていなかったはず。会場周辺ではテンションの上がったファンの子たちがまだたくさん残っていて、グッズを持って記念撮影をしていた。
「あの、行き先はホテルでいいんですよね……?」
ハンドルを握るマネージャーが、様子を伺うようにおずおずと尋ねてくる。思わず鼻歌を歌ってしまうほど、上機嫌な俺を不気味に思っているらしい。
「あー、うん。ホテルでいいよ」
「かしこまりました」
きっと、ホテルからでも歩いてたどり着ける。会場からも香りを確認できたんだ。陽が「ここだよ」って呼んでいるのが分かるから。
部外者兼邪魔者のマネージャーを陽の元へ連れて行きたくない。こいつが茨木のように何か言えるとは思わないけれど、マネージャーという立場の人間に陽がトラウマを抱いていてもおかしくない。
それに、再会は二人きりがいい。
全てやるべきことは済ませてきたんだ。
あとはもう、俺と陽だけの時間だろう?
想像だけで、勝手に口角が上がる。陽がいなくなってから二年、自然と笑みが溢れるのは初めてのことだった。
「私はまだ仕事があるので戻りますが、今日の公演のチェックは本当にいらないんですよね?」
「ああ、今日の公演は改善点が特にないから。明日軽く見直すぐらいでいいよ」
「分かりました。では、明日もあるので今日はゆっくり休んでください」
「はいはい、お疲れ」
「お疲れ様です。失礼します」
運転席から会釈をした後、去っていく車を見送って、深く息を吸う。朝よりも濃くなったフェロモンに心臓がうるさく主張する。
お前の番が待っているぞ。早くしろ。
そう言っているのが分かる。
ホテルに一歩も入ることすらせず、俺はただ導かれるように足を進めた。初めて来る土地だっていうのに、迷いはない。海に面したこの街は階段が多くて、コンサート終わりなのもあって、さすがの俺も息が切れる。だけど、一秒たりとも足を止めることはしなかった。一刻も早く、陽に会いたいから。
運命の赤い糸に導かれるように、一軒のアパートにたどり着いた。オートロックすらない年季の入ったアパートの一室から、陽の香りが漏れ出ているのがすぐに分かる。
ここへ来て、今更だけど少し緊張する。この瞬間をどれだけ待ち望んでいたか。なるべく音を立てないようにゆっくりと階段を上り、震える指でインターホンを押す。しかし、家の中はシーンとしたまま、何も返事がない。隣の家からだろうか、子どもの泣く声が聞こえてくることさえ、今は疎ましく感じる。
俺に気づいて、居留守を使っている? ここまで来て、まだ俺を拒絶するつもりなの?
再びインターホンを押しながら、ぎりと歯を食いしばる。こんなにフェロモンを出しながら俺を誘っているくせに、引き下がれるはずがない。
近所迷惑だと頭の中では理解していながら、三度四度と立て続けにインターホンを鳴らしていれば、隣の家のドアががちゃりと開いた。
まずいと思って帽子を深く被り直した瞬間、どんと足に軽い衝撃。何だと下を向けば、どこかで会ったことのあるような、そんな顔つきの子どもがぎゅっと俺の足にしがみついている。涙を流しながらもぱっちりとした瞳がこちらをまっすぐに見上げていた。
「君は……、」
「ぱぱ」
「え?」
「ままを、たすけて」
「ママ……?」
身に覚えのない言葉を告げられても、困惑した頭上には?しか浮かんでこない。俺は君のパパではないし、ママも知らない。眉間に皺を寄せていると、先程よりも大きくドアが開いて、老夫婦が顔を覗かせた。
「玲くん、ほら大丈夫だから」
「…………」
家から出てきてしゃがみこんだおばあさんに優しく声を掛けられても、子どもは口を真一文字に結んだまま何も話さない。
「君は……、その家の住人に何か用があるのかい?」
すると、おじいさんが俺に声をかけてくる。よかった、俺の正体には気づいていないみたいだとホッとしながらもこくりと頷く。
「はい、迎えに来たんです」
「ふむ……」
俺の答えを聞いて、おじいさんは顎に手をやって考え込む。子どもの頭を撫でながら、今度はおばあさんが口を開いた。
「もう、貴方に気持ちがなくなっていたとしても?」
「ええ、たとえ俺に愛想が尽きていたとしても、何度でも好きになってもらえるように頑張るだけですから」
幸せに暮らしているならそれでいい。
……なんて、嘘でもそんな綺麗事を言えるはずがない。
だって、陽も俺を求めているって分かるから。俺を呼んでいるのは、間違いなく、このドアの向こうにいる陽だから。
「あの子を傷付けるために来たのじゃないのね」
「もちろん」
「やっと、笑えるようになったところなの。だから、また泣かせるような真似はしないでちょうだいね」
「……約束します」
まっすぐに瞳を見つめて答えれば、穏やかな微笑を浮かべたおばあさんが子どもを引き取り、陽の家の鍵を開けた。ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐るドアを開ける。
その瞬間、ぶわりとフェロモンに全身が襲われて、理性がぶっ飛びそうになる。それに耐えるため、ふぅと大きく息を吐く俺の背中を叩いて、おじいさんが言う。
「向かって左が彼の部屋だ。後は頼んだよ」
「……はい」
パタリと背後でドアが閉まるのを感じる。子どもが俺の一挙一動を目に焼き付けるように、じいっと観察していることに気付く余裕なんてなかった。
「ッ、うぅ……、」
「陽、」
「……すい」
微かに聞こえてくる声。俺の名を呼ぶ愛しい声。
俺は、一目散にその部屋を目指してドアを開けた。
一番に目に飛び込んできたのは、狭いベッドに横になって、必死にオメガという性に抗おうとしている愛おしい番の姿。久しぶりに見る陽に熱いものがこみ上げて、歓喜に震える。
この子が俺の運命だと、本能が告げている。
二年前になくしたと思っていたシャツに顔を埋める陽は、ヒート真っ只中の熱に浮かされて魘されているようだった。だから、まだ俺がいることに気づいてすらない。
さっきまでの勢いはどこへやら、ゆっくりと一歩ずつベッドに近寄る。俺の眠り姫、起きてその顔をよく見せてくれないか。
「……陽」
何度も何度でも呼びたかった名前。
やっと本人に向けて言えるということに、感動で胸の奥が熱くなる。
ずっと、会いたくて会いたくてたまらなかった。
半身をもがれたみたいに、魂が欠けてしまったみたいに、自分から何かが消え去ってしまったようで、この二年間はまるで生きた心地がしなかった。
ジグソーパズルの最後のピースを見つけたときのように「嗚呼、これだ」と、ぴったり嵌る感覚が心地よい。だって、俺の隣は陽しか考えられないのだから。
手を伸ばす距離に陽がいるというだけで精神が安定するし、すべての欲が湧いてきて、満たされる。
「陽」
再び名前を呼べば、眉間の皺が少しマシになる。俺の声に反応しているのか、フェロモンの香りが濃くなったのが愛おしくてたまらない。
「陽、迎えに来たよ」
意識のない陽に触れていいものか、ほんの少しだけ躊躇った。けれど、一度手を伸ばしてしまえば陽に触れたいという欲求は抑えることができなくて、ゆっくりとベッドの横にしゃがみこんで、陽の柔らかな黒髪を撫でた。
近づいて見て、初めて分かる。ついさっきまで泣いていたのだろう、涙の跡が頬に残っていた。その跡を消し去るように頬をなぞる。少し痩せただろうか。まろかった頬が痩けていて、ちくりと胸が痛む。
「遅くなってごめんね」
「…………」
「陽、」
まるで神様に懺悔するかのように陽に語りかける。愚かな己の罪を許して、戻ってきてほしい。そんな祈りが通じたのか、ゆっくりと陽の目が開く。その様子がスローモーションのように見えた。
熱っぽい瞳が俺を映す。ガラス玉のように透き通った瞳に自分が映っていることを確認したら、泣いてしまいそうだった。
「……すい?」
「うん」
「…………夢?」
「ううん、夢になんてさせないよ」
ぼんやりと覚醒しきっていない陽は、まだ夢の続きだと思い込んでいるらしい。ふにゃふにゃと緩んだ笑顔を浮かべていたのに、意識がはっきりするにつれて、その表情が強ばっていく。
「っ、ごめん、ごめんなさい」
「陽、落ち着いて」
突然取り乱し始めた陽の手を取るけれど、その顔は青ざめたまま。
番のフェロモンは、オメガにとって何よりも効果的な精神安定剤になるという。そのことを思い出して、俺は陽を腕の中に閉じ込めた。発情期のせいで、記憶の中よりも熱く火照った身体は、やっぱり以前よりも骨ばっている。強く力を入れたら折れてしまいそうだ。
「……ッ、だめ、はなして」
「やだ」
「おねがい、今ならまだ間に合うから。もう会わないって、約束したんだ」
「…………」
「僕は、翠の傍にいたらだめなんだよ」
自分に言い聞かせるように話す陽を落ち着かせるために、するりと項を撫でて、目でも確認した。そこには今なお、綺麗な花が咲いている。迷わず痕に唇を落とせば、陽の身体がびくりと跳ねた。あの頃と変わらないものをようやく見つけて、俺はほっと息を吐き出し、陽を抱き締める腕に力を込めた。
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