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Show must go on

 小鳥の囀る声が聞こえてくる。柔らかな朝日を避けるように寝返りを打てば、くすりと笑い声が聞こえて少しずつ意識が浮上する。ぱちぱちと何度も瞬きして、ようやく視界がクリアになる。翠の腕の中で目を覚ました僕を愛おしそうに見つめる彼と目が合った。  「……すい」  「おはよう」  「おはよ」  もう夢だとは思わないけれど、改めて冷静になって翠と対面するとなんだか気恥ずかしい。だって、二年もの間に翠はまた美しくなっているのだから、その破壊力たるや。  上半身裸で甘い微笑みを浮かべて僕を見つめる彼に耐えられなくて、シーツで顔を半分隠す。目だけ出していれば、さらと髪を梳かされた。  「何で顔隠しちゃうの」  「……あんまり見ないで」  「ふふ、かわいいなぁ……」  僕と翠だけの甘い時間。顔が赤くなっているのを見透かしているみたいに笑った翠は、僕の額に優しく口付けた。  「そのままでいいから、話聞いてくれる?」  「うん」  少し緊張しているのか、僕の髪を撫でながら翠は躊躇いがちに口を開く。  「……陽はさ、俺との赤ちゃんが欲しいって、まだ思ってる?」  「え?」  あまりにも予想外な問いかけだったから、ぽかんと口を開けたまま固まってしまう。  どうして、突然そんなことを……? 『まだ思ってる』って、僕が翠にそう言ったことがあるということ……? それとも、玲のことを知っているの?  これまでたとえそう思ったことがあったとしても、自分は身を引く存在だからと翠に伝えたことはないはずなのに。玲のことは言わないとと思っていたけれど、昨日理性を失った僕が何か口走ってしまったのだろうか。  思わず眉間に皺を寄せる僕を見て、勘違いした翠は寂しそうに微笑みを浮かべた。  「やっぱり覚えてないか……。陽がいなくなる日、意識を失いかけながら言ったんだよ。『翠の赤ちゃんが欲しい』って」  「……っ、」  「嬉しかったんだ、陽も同じ気持ちでいてくれるんだって。でも、まだ赤ちゃんが欲しいって思ってるかは分かんなかったから、」  「翠、翠っ、ごめんなさいっ……」  嗚呼、僕はなんてことを……。僕と同じように子どもを望んでいた翠から、二年も我が子の成長を見守る権利を奪ったんだ。取り返しのつかない罪悪感に、はらはらと涙が流れる。謝罪の言葉を口にする僕に目を見開いた後、翠は悲しそうに眉を下げた。  「再会したばかりなのに、突然こんなこと言われても分かんないよね」  「ちがっ、」  「いいんだ、ごめん、俺が急ぎすぎた」  「ちがう、聞いて、翠」  がばりと身を起こした瞬間、腰がズキッと痛むけれど、そんなの気にしていられない。  昨夜は暗くて見えなかっただろうけれど、すっかり明るくなった部屋では帝王切開の跡がよく見える。二年という時を経て少し分かりにくくはなったものの、それでも僕にとっては勲章の証だった。  「これ……」  信じられないものを見るような目で、翠が恐る恐る傷跡をなぞる。少しずつその瞳に涙が溜まっていくのを、僕は黙って見つめていた。朝日に照らされてキラキラと輝いているのが、あまりにも綺麗だった。  「……痛む?」  「ううん、平気だよ」  「陽は……、ずっと、ひとりでいるんだと思ってたんだ。だけど、違ったんだね」  よかったと零しながら、僕を抱き寄せる翠が肩に顔を埋める。  「翠がくれた宝物がずっと一緒だったよ」  「っ、」  だから、僕はここまで頑張れた。番から離れた代償はあまりに大きくて、ずっと心にぽっかりと穴があいたみたいだったけど、それを埋めてくれたのは間違いなく玲だった。  「ありがとう」  「翠……」  「大切な人がふたりになってるなんて思ってもいなかったから、嬉しくて……」  「…………」  「好きな人との子どもができるって、こんなに幸せなんだね」  涙が溢れ落ちることを気にも止めず、翠は花が開くように本当に幸せそうに笑った。  そんな翠に胸が痛む。まだ挨拶を交わしていない我が子の存在をこんなに喜んでくれているのに、僕はあまりにも身勝手な決断をしたんだ。堕ろす選択肢なんて端から考えなかったし、翠への連絡手段もなかったから、僕にはどうすることもできなかったのだけれど。それでも申し訳なさと罪悪感が募っていく。  「ごめんね、何も言わずにひとりで産んで……」  「謝らないで、ふたりが元気ならそれだけで十分だから。産まれてから今日までの成長を見守れなかったことは正直ちょっと寂しいけど、これからたくさん思い出を作ろうよ」  「っ、うん」  乾いたはずの涙が再び戻ってくる。  本当はずっとやりたいと思っていたこと。全部ぜんぶ、叶えよう。玲にも翠にも寂しい思いをさせた分、これからたくさん楽しいことをしよう。  「……もしかして、今隣の家にいる子がそう?」  「そうだけど、もう会ってたの?」  「うん、どこかで見た顔だと思ったんだ。そっか……、あの子は俺たちの子なんだね」  しみじみとそう言う翠は、もう既に親の顔になっている。そうだよ、あの子は奇跡みたいにやってきた、僕らの愛の証なんだ。  「もう起きてるかな」  「今は……、まだ五時か」  老夫婦は早起きだから起きていても不思議はないけれど、玲にとってこの時間帯はまだぐっすり夢を見ている時間だ。  一人息子の世話を押し付けて、こんな早朝に訪ねるなんてあまりにも無礼だろう。それでも、早く玲に会いたい。誤解をといて、仲直りをして、それから翠のことを紹介したかった。  「……行ってみよう」  「いいの?」  「うん、もしまだ寝てたら出直そう」  遠慮がちに頷いた翠は、そわそわと落ち着かない様子。そりゃそうだ、血が繋がった息子がいるって、ついさっき聞かされたばかりなんだから。  カラスの行水のように手短にシャワーを浴びた僕たちは、ドキドキしながら隣の家の前に立っていた。気持ちを落ち着かせるみたいに深く息を吐き出せば、並んで立つ翠が僕の手を握ってくれる。  ――ピンポーン。  震えないように力を込めた指でインターホンを押せば、少しの間の後、「はーい」と柔らかな声が聞こえてくると同時にドタバタと駆けてくる音がした。  「春崎です。すみません、朝早くに……」  『陽くん、ちょっと待ってね』  そう言って通話が切れると同時に、目の前のドアを叩く音。ギョッとして目を見開きながら「玲……?」と声をかければ、「はいはい、玲くん、今開けるからね」とおじいさんの声が聞こえてくる。  ガチャリと鍵を開ける音がしてドアが開いた瞬間、勢いよく飛び出してきた小さな姿。翠の手を離し、僕の足にぎゅうっとしがみついて離れようとしない玲の頭を撫でながら、その場にしゃがみこむ。  「玲」  「…………」  「ごめんね、寂しい思いさせて」  顔を俯かせたままの玲に謝れば、ゆっくりと顔を上げる。泣いているのかと思っていた。けれど、その愛らしい瞳に涙をいっぱい浮かべているのに、それを流したらだめだと言わんばかりに顔を顰めて堪えている。  「まま……」  震える声で呼ばれた瞬間に、ぎゅっとその小さな体を抱きしめると、じんわりと肩が濡れる感覚がした。もう離れたくないと、必死にしがみついてくるその姿に心が痛む。  僕はこの子にどれだけの我慢をさせてきたのだろう。自分を責めたくなる気持ちでいっぱいだけど、今は玲と話がしたい。  「玲、お家に帰ろう」  「うん……」  「すみません、ありがとうございました。また改めてお礼に伺います」  「あら、いいのよ。玲くん、かわいいもの」  「いつでも遊びに来ていいからね」  抱き上げた腕の中で、玲がばいばいと小さく手を振る。老夫婦は微笑みながら手を振り返してくれた。ぺこりとお辞儀をしてから、我が家に戻る。  「まま、」  「ん?」  「……ぱぱ?」  「えっ」  「っ、」  リビングのソファに玲を下ろして、何から話そうと悩んでいると、先に玲が口を開いた。思ってもいなかった言葉に二人揃って息を飲む。僕が狼狽えている間に、翠がさっと玲の前に膝をついた。  「はじめまして、玲くん。深山翠です。昨日から分かってたの?」  「……うん」  「昨日?」  「会った時に呼ばれたんだ、『ぱぱ』って。その時は訳が分からなかったけど、今なら理解できる」  そんなことがあったなんて、知らなかった。驚きに目を丸くする僕の隣で、優しい瞳で玲を見つめる翠。こうして並んでいるところを見ると、やっぱり瓜二つだ。  「ずっと会いに来られなくてごめんね」  「…………」  「いきなりのことでまだよく分かんないと思うんだけど、玲くんが許してくれるなら、ママと一緒に三人で暮らしたいと思ってる」  「……そしたら、まま、もうなかない?」  「っ、」  泣くなと、心の中で自分を叱責したって、我慢をするのは無理だった。もっと我儘を言って、困らせてほしいぐらいなのに……。どこまでも僕のことを第一に考えて、何よりも優先してくれる優しい子。親としてまだまだ未熟な僕は、この子に何を返せるのだろう。  「うん、もう泣かせない」  ぽろぽろと涙を流す僕を困ったように見つめながらも、翠が決意を新たにする。もう既に泣いちゃっているけれど、これは悲しい涙じゃないからノーカン。だけど、まだそれを理解できない玲は、矛盾したことを口にする翠に少し首を傾げた。  「嬉しいときとか、感動したときは泣いたっていいんだよ」  「まま、うれしいの?」  「うん、玲みたいな息子がいてくれて世界一幸せだなぁって思ったら、涙が出てきちゃった」  照れ笑いを浮かべながらそう説明すると、きらりと瞳を輝かせた玲の口角が上がる。  「玲くんも一緒だよ。一生かけて、大切にする。……これから先、きっと喧嘩もするし、俺に腹が立つこともあると思う。でも、これだけはずっと覚えていて。玲くんを愛してるってことを」  「……わかった」  「俺の大切な人を、傍でずっと守ってくれてありがとう」  ぎこちなく翠が手を広げると、玲は恐る恐るその腕の中に収まった。お互いにまだ探り探り。距離を感じるのはしかたない。それでも、翠のことを許してくれたことに心からホッとしていると、玲が口を開いた。  「でもね、」  「ん?」  「ままと、けっこんするのは、ぼくだから」  「……は?」    突拍子もない爆弾発言に、ピシッと固まる翠。思わず漏れた言葉を気にする余裕もなくなっている。  「ちょ、え、けっこん? ……血痕?」  「いや、どう考えても違うでしょ」  「嘘でしょ、え、何で陽はそんなに冷静なの」  「ままはぼくのだもんっ」  ぐりんと体を翻し、翠の腕の中から飛び出してきた玲が僕に抱き着いてくる。ぷくぷくのほっぺたをむすっと膨らませているのが愛らしくて笑顔が溢れる。  ガーン……といろんな意味でショックを受けている翠は、今日もまだライブがあるのを忘れていないだろうか。  「翠、時間大丈夫?」  「こっちはそれどころじゃないんだけど」  「もう、ファンのみんなが待ってるんでしょ」  「ふぁん……?」  「ふふ、パパはね、たくさんの人を虜にするアイドルなんだよ」  アイドル? と首を傾げる玲。これまでアイドルには触れさせないようにしてきたけれど、翠の過去のライブ映像を玲と一緒に観るのも楽しそうだ。そんな明るい未来を思い描いていれば、屍になりかけた翠が問いかける。  「玲くん、アイドルに興味ある?」  「うん」  「じゃあ、陽と一緒に見においで」  「え、そんな急にはさすがに……。それに、二歳児にはうるさすぎるんじゃ……」  「控え室のモニターがあるから、そこで見守っていてよ」  瞳をキラキラと輝かせた玲は、行く気満々。翠のファンが集まるところに玲を連れて行くなんて、こんなにそっくりなのだからすぐに誰が親かバレるだろう。隠し子報道をされるかもしれないのに、アイドル張本人様は何にも気にかけていなさそう。  「ちゃんと自分の口で公表するところを見届けてほしいんだ」  「でも……、」  「大丈夫、俺が守るから」  「玲のこともあるけど、翠の人気が……」  スキャンダルなんて、芸能人にとっては致命的。清廉潔白なイメージだった俳優や女優が週刊誌にすっぱ抜かれて、そのまま干されたケースはいくらでもある。  アイドルなんて特に人気が評価に直結する仕事だ。人の心は移ろいやすい。真実も嘘も関係なく、熱愛報道ひとつで、すぐに熱心なファンは離れていく。  翠をそんな目に遭わせたくない。僕のせいで、トップアイドルの座を誰かに譲るなんて絶対に嫌だ。だから大丈夫、日陰でひっそりと生きていく覚悟はできているから……。そう、思っていたのに。  「陽、聞いて。大丈夫だから」  「…………」  「俺はずっと『運命を探している』って公言してきた。ファンのみんなもそれをよく分かってるよ。だから、運命が見つかったって報告したら、きっと喜んでもらえる」  「ほんとう……?」  「まぁ確かにほんのちょっと嫉妬はされるかもしれないけど、そんなの気にならないぐらい俺に夢中になっててよ」  僕は知らない。翠とファンの間にある絆を。翠はこう言っているけれど、きっと本気で翠を好きな子もいるはずだ。その子たちを傷付けてまで、僕らの存在を明らかにする必要はあるのだろうか。すると、翠が表情を曇らせたままの僕の手を取る。  「陽の気持ちもすごく分かるよ」  「……それなら、」  「でも、俺は陽とたくさんデートがしたい。玲くんを連れて遊園地だって行きたいし、記念日にはお洒落なレストランでディナーをしたい」  「…………」  「世界中に俺の愛を見せつけてやりたい。でも、陽を日陰に追いやったままだと、それは叶えられない。俺は陽にも玲くんにも堂々と生きていてほしいんだ」  そっか、僕らの存在を隠したままだったら、これからもずっとバレないように息を潜めて生きていくしかないんだ。僕はそれでもいいけれど、玲は? どんどん活発になっているこの子の未来を僕の我儘で閉ざしたくはない。  「本当に陽が嫌なら、納得してもらえる日が来るまで待つよ」  「翠……」  「俺、待つのは得意だから」  そう言って笑う翠の顔は、ほんの少しだけ寂しそうだった。僕にはもったいないぐらい素敵な人。そんな彼に僕はどれだけ我慢させてきたのだろう。  「……分かった」  「いいの?」  「翠と生きていくって決めたから。遅かれ早かれ必要な覚悟なら、今ここで腹を括るよ」  どんな批判だって受け止める。僕はこの世界からアルファの王様を奪った男なんだから。そんな僕の決心を聞いた翠が優しく僕を抱き寄せる。  「二人の顔はバレないようにするから」  「うん」  「……ずっと傍にいてくれる?」  「うん、いるよ。僕は翠の番だから」  不安そうに聞いてくる翠に答えると、回された腕に力がこめられる。首元に顔を埋めた翠が鼻を啜ったのには聞こえないふりをして、僕はさらさらの髪を撫でた。  ◇◇  初めてのライブ会場っていうだけでもそわそわしてしまうのに、周りは全て翠のファンだっていうのだから余計に落ち着かない。翠の指示通り、玲には深く帽子を被らせて、誰にも出会さないように裏口から会場内に入った。  茨木さんに会うのは怖かったけれど、二年の間に翠のマネージャーは変わっていたらしく、淡々とした口調で話す新しいマネージャーが部屋まで案内してくれた。正直ほっとしたのは、翠には秘密だ。  「てれび?」  「そう、これで翠のライブが観れるんだって」  開演まであと少し。僕らだけに用意された空間だから、周りの目も気にならない。部屋を探索している玲は、初めての場所に興味津々だ。  ライブの日ってリハーサルとかあるはずなのに、ちゃんと時間に間に合っただろうか。午前の間にはなんとか到着していたはずだけど、大丈夫だっただろうか。自分にも責任があるから、無事に開演できるのか、気になってしまう。  『キャー!』  備え付けの大きなテレビから黄色い歓声が聞こえてくる。画面は暗転していて、いよいよライブが始まるのだと分かった。  「玲、おいで」  素直に僕の元までやってきた玲を抱え上げて、膝に乗せる。ぎゅっと抱き締めれば、玲が「まま?」と見上げてきた。何も言えずにいると、玲は僕の手を握って前を向いた。我が子ながら、気遣いのできるいい子だ。  少し癒されたものの、こんなにたくさんの人に応援されているって目の当たりにしたら、胸がいっぱいになって、ちょっと怖くなる。けれど、Show must go onだから。ライブはそんな僕を待ってはくれない。  オープニング映像が終わって、客席のボルテージも最高潮に。いよいよ、幕が上がる。トップアイドル様の登場だ。  「あ、」  キラキラのスパンコールにも負けないほどのオーラを纏って現れた翠に一瞬で目を奪われる。華やかなピンクゴールドの衣装が甘い笑顔を引き立たせる。伸ばしていたという髪をいつの間に切ったのか、久しぶりの短髪姿にファンの興奮する声は止まらない。  ――これがトップアイドルなんだ。  一曲歌っただけで、そう納得させる説得力があった。  画面越しのウインクに顔を赤らめてしまうのはしかたない。分かっているのかいないのか、玲まで頬に手を当てて「きゃー」と言っているのはかわいかったけれど。  デニムをメインにしたカジュアルな衣装、白を基調としたロングコートの王子様衣装、翠のかっこよさを前面に押し出した赤の王道アイドル衣装。衣装や髪型ひとつでこんなにも魅せる顔が違うのかと、圧倒されてしまう。翠から目が離せない。  あっという間の二時間半。途中で飽きてぐずったり、寝ちゃったりするかと思っていた玲は、真剣に画面の中の翠を見つめていた。  たったひとつのスポットライトが照らすメインステージの真ん中で、怒涛のダンスナンバーを終えた翠が荒い息を整えながら客席に頭を下げる。  『本日はお越しいただきありがとうございました』  そんな翠に暖かな拍手が送られる。僕と玲もぱちぱちと手を叩き、それに倣った。  顔を上げて、ゆっくりと会場全体を見回した翠がカメラをまっすぐに見つめる。あまりにも真剣な瞳に、まるで僕を見つめているかのようだと錯覚してしまう。  『俺はずっと運命の番に憧れて、自分だけの唯一を探していました。芸能界に入ったのも、その方が見つかる可能性が高いと思ったからです』  「翠……」  『でも、皆さんもご存知の通り、運命に出会えるのはほんの数パーセントの限られた人だけです。何年探したって、見つからないものは見つからない。正直、運命の番っていうのはただの夢物語で、もう駄目なのかなぁって諦めかけていました』  本来ならば、ライブの感想やファンへの感謝を伝える最後の挨拶の時間だったはず。これまでの公演とは違う内容にファンが動揺しているのが、画面越しでも伝わってくる。  『今からおよそ二年前のことです。偶然入ったコンビニで、今まで感じたことのない衝撃を受けました。赤い糸を辿って、この人だって、すぐに直感しました』  「っ……」  『俺が不甲斐なくて、皆さんに報告するのが遅くなってしまってごめんなさい。いきなりの報告で悲しませたり、混乱させてしまう形になってごめんなさい』  謝るべきは僕だって同じなのに。ステージに立って、何もかも全てを一身に受け止めようとする翠の姿に涙が滲む。  『……運命の番に、巡り会えました。俺にとって、一生傍にいてほしい最愛の人です。一生をかけて幸せにしたい。そんな相手との子どもがいることも分かりました』  少し緊張したように翠が告白すると、会場中が息を飲んだ。会場だけじゃない。カメラの向こう側、僕にも届くように話していると分かって、胸の奥が切なく鳴った。翠と同じぐらい、僕も緊張している。  『……アイドルっていうのは、どうしようもなくずるい生きものです。皆さんの前に立つと、改めてそれを実感します。皆さんの日常に、ほんの少しでも笑顔や幸せをプラスするのがアイドルの使命だと、存在意義だと思っています』  そこで話を区切った翠が小さく息を吐き出した。今日の翠は何を言うのか読めない。そんな空気がファンの間に広がって、広い会場がシーンと静まり返っている。  『でも、自分の活動を振り返ってみると、あまりにもアイドルとしての覚悟や自覚が足りていなかったなと、今になって思います。全てを投げ打ってでも守りたい人ができたあの日、このまま辞めてもいいやと投げやりになった自分がいます。自暴自棄だったのもあるかもしれません。……今回のツアーでこれまで行けていなかった地方に行って、改めてファンの皆さんからの愛をたくさん感じました。けれど、こんなにたくさんの愛をいただいているのに、俺は何も返せていない。中途半端な気持ちのまま、アイドルとして活動を続けてもいいのか。それは皆さんに対して失礼なんじゃないか。そう思わされる日々でした。アイドル失格だなと、今回のツアーを通してその気持ちが強くなりました』  僕は、アイドルとしてのsuiを知らない。どんな気持ちでアイドルを続けていたのかも分からない。それでも、その瞳にきらりと輝く雫を見て、ぐっと胸に来るものがあった。  『ずっと、自分の終わりについて考えていました。アイドルとしての誇りなんてない自分は、さっさと引退するべきなんじゃないかって思っていました。……でも、今日皆さんの顔を見て、アイドルって楽しいなぁって、心の底から思いました。俺のことを見て元気になってくれる人がいるって、どんなに幸せなことなんだろうって。アイドルってこんなに素敵な仕事なんだって、改めて気付かされました。間違いなく、今が一番、アイドルというものに向き合えていると思います。……もし、皆さんが許してくれるなら、……まだアイドルを続けてもいいですか?』  『辞めないで!』  不安そうに言葉を選びながら、ゆっくりと話していた翠が前を見る。一人の声を皮切りに、翠に届けと、客席からの声がどんどん大きくなる。この場所に翠の引退を望む人は一人もいなかった。  翠自身が生まれ持っていたカリスマ性は、きっと本人にやる気がなくてもスターダムに押し上げてしまうほどのものだった。たった一回、ライブを観ただけで虜になってしまうのだから、翠がトップアイドルになるのもそういう運命だったのだろう。  人を魅了して、虜にする。  それは、翠の才能なのだから。  『……ありがとう。こんな俺のことを応援してくれて、本当にありがとうございます』  ぎゅっと両手でマイクを握り締め、声を震わせる翠は客席全体を見回して、たくさんの愛全てを受け止めているように見えた。  僕には強がって大丈夫だって言っていただけで、翠も心の中では不安だったのだ。これまでの活動も引っ括めて、自分がまだアイドルとして求められているのか。それは今日この場所に立つまでは分からなかった。ファンあってこその、アイドル。そんなことぐらい、芸能界に詳しくない僕にだって分かる。  『皆さんが許してくれるなら、アイドルを続けてみようと思います。今度はちゃんとアイドルとしての自覚と誇りを持って、今まで以上に輝いてみせます。皆さんからいただいた以上の愛を返していけるように頑張りますので、これからもどうか応援していただけると嬉しいです。本日はお越しいただき、ありがとうございました』  翠がsuiでいてくれる限り、光は消えない。それをファンのみんなはよく分かっている。アイドルとファンって、お互いに道を照らし合い、導き合う関係なんだ。  ファンのみんながいたから、アイドルのsuiは引き止められた。僕の声だったら、引退しようとする翠の耳にはきっと届かなかった。そんな絆を見せられた気がして、とんでもない人の番になってしまったのだと改めて感じる。  ねえ、翠。  貴方を世界から奪ったなんて考えるのも烏滸がましいほど、翠はみんなのアイドルなんだね。  だから僕は、アイドルじゃない、ただの深山翠を一番に愛していくよ。ずっと傍に寄り添って、辛いときも悲しいときも一緒に乗り越えていく。  翠と運命を共にするのは、世界中でただ一人、僕だけだから。赤い糸はもうほどけない。死がふたりを分かつまで、僕らは一緒に幸せになる運命なんだ。

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