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それから3か月もして、俺達の噂を誰もが忘れ去った頃。
ようやく寒さが和らいで、朝晩の冷気に柔らかな春の湿度が混じり始めたある日のこと。
ここしばらく、街でレオを見かけていなかった。これまでも、パパに随行してバカンスだとかで2~3週間姿を見ないことはたまにあり、そんなことだろうと思っていた矢先だった。
今夜は劇場街のネパール料理屋で晩飯を済ませ、ソーホーでローテする3番目のパブで酒を飲み、店主と常連のSM嬢から界隈の話を聞いた後、ほろ酔いで帰った。
すると。
ウチの前に、レオがいた。
玄関の階段に膝を抱えて座っていたレオは、俺に気づくと「ノーマン!」とキラキラした声を張り上げて、威勢よく立ち上がった。
「おーレオ、久しぶりだな」
「うん、元気??」
愛玩犬みたいにこっちに駆け寄るレオに特に異変は感じられず、顔が見れた素直な嬉しさと、無事でよかったという安堵でほっとしていた。
「見ればわかるだろ、人生がくたびれてる、お前は元気すぎて安心した」
「うん、元気だよ」
「ここんとこ何してた?」
「ナイショ」
「そーか、無事ならいい」
「心配してくれるの?」
「まぁ…頭のおかしい変態に売り飛ばされてたり、変なビョーキこじらせて人知れずおっ死(ち)んでないかとか、“パパ”は心配だ」
「ありがと」
俺の気も知らず、目の前の男は嬉しそうに目を細めた。
「…で、何しにきたんだ?」
「何って、話があってーーー」
「別に飲みながらとかでもいいだろ」
「ちょっと、大事な話だから…」
アイラインで囲ったキレイな目は、真剣だった。
これまで、彼のこんなに強く光る瞳を見たことがなかった。
「なんだよ、何か自首(ゲロ)でもすんのかーーー」
「パパと、カタ…つけたの」
「…まさか、殺(や)ったのかーーー」
「ちゃんと聞いて!?ケリ、つけたの!」
「…ケリ??」
「なんでわけわからんみたいな顔してんの?だから、パパとの契約を終わらせたの!」
理解はできたが、全く腹落ちしなかった。
「わけがわからん」
「どうして『そうなんだ』ってならないの!?」
「いややめる理由がないだろ…あれか?パパが若い男に乗り換えたのか??」
「ひどい!ボクが終わらせたの!だからここんとこバタバタしてたの!」
「ますますわからん、なんでだ」
「ノーマンのために!」
「俺はやめろなんて一言も言ってないぞ!??太客なくしてどーすんだーーー」
「ボク、ノーマンの男になるから」
「…????」
何を言い出すのかと思えばまたわけがわからないが、目をギラギラさせて息巻く顔もキレイだった。
「ちょっと待て、無理だ…お前の仕事ってそういう、お前が宣言すれば成立するものなのか!?」
「無理って何ーーー」
「無理だろ、お前のパパになんかなれない、そんな金ないの知ってるだろーーー」
「違う!そういうんじゃなくて!!」
「なんだ??」
「売り、辞めたの」
「???」
胸に重い衝撃を感じて我に返ると、レオが俺の胸に顔を埋めていた。
やっぱり理解できない俺は、ただ、馬鹿みたいに突っ立っていた。
「…辞めた?」
「辞めた」
「そういうのは一番最初に言うことだろーーー」
「ガタガタ言う前に抱いてよ」
「……」
ようやく、レオの意図を飲み込みかけていた俺は、半信半疑でその背に手を回した。
何かを派手にしくじったとかよほど打ちのめされたとか、そういうキッカケでもなければ、人はそう簡単に生き方を変えたりしない…という考えは、思い込みに過ぎないのだろうか。
「…それにしても、急すぎないかーーー」
「ずっと考えてた」
「…で、これから何すんだーーー」
「これから考える」
「そーか…」
「ねぇ」
「ん」
「早く家に入れて」
「なんでーーー」
「化粧落としたい」
「………」
思い出さないようにしていても、よく知った男娼の香水はあの日を思い出させた。素直に歓迎できない体の弾力と温もりを、体はしっかり覚えている。
たった一晩ウチにいただけなのに、勝手知ったように落ち着いたレオは、すぐにシャワーを浴びにいった。
今日も長風呂だったのは「バスタブ汚れてたから洗った」からだそうで、俺のよれよれのスウェットを着た男は、あの夜のようにお茶にミルクをたっぷり入れて、自宅みたいにくつろいでいた。
寝室に黙ってついてきたレオは、当然みたいに俺のベッドに潜り込んだが、俺を抱き枕にはせず、大人しく横に寝ていた。
「…きれいだね」
小さな声が、なんのことかしばらくわからなかった。
それだと思われる天窓には、まだらな薄曇りの空が見えている。今夜はほぼ満月らしかったが、雲にほとんど隠れた月は傘を被ってくすんでいた。明日の朝は、雨だろう。
「…空が?」
「おつきさま」
「ほとんど雲に隠れてるーーー」
「でも、きれい」
「……俺はお前がよくわからない」
「ボクもノーマンのこと、よく知らない」
「…なんで、俺なんだ?」
「…ノーマンのちんちんが忘れられないから」
冗談にしては、静かすぎる声だった。
俺を探った手が左手の下に潜り込んだが、その温かな手を握ってやることができない。
「…俺は白馬の王子様じゃない」
「どうして?」
「そんなガラに見えるか?」
「見えない」
「…だろーーー」
「ノーマンでいっぱいオナってた」
「………」
体が熱くなっても、手を握れなかった。
遊びでも気休めでもない行為がどんなものか、もうすっかり忘れていた。
「テンガでバキュームしながらお尻をディルドで搔き回すのーーー」
「言わなくていいーーー」
「ノーマンはオナった…?」
「…ない」
「どうして?」
「…しても虚しいだけーーー」
「ねぇ、ノーマン…」
静かに頭を起こしたレオが、俺を覗いた。
「ノーマンがいてくれて、嬉しい」
目と鼻の先ではにかむ彼は、まるで、恋を知ったばかりのティーンみたいだった。
「……レオ」
「?」
「…お前の…」
伸ばしてみた指に、男が頬を擦(なす)りつける。
「お前の…ほんとの名前は…?」
「……もぉ、忘れちゃった」
そう呟いて、男は、幸せそうに微笑(わら)った。
「ボクを、ノーマンのレオにしてよ…」
「………」
返す言葉がわからなかった俺は、代わりに、レオの唇に食いついた。
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