56 / 207

第56話

 思い出すのは──怯えた目で自分を見た、アスカの顔だった。  涙に濡れた睫毛、恐怖が色濃く映る瞳。  震える声で、自分の名を呼んだときのあの表情が、焼きついて離れない。  リオールの肩が、ぶるりと揺れる。  嗚咽の代わりに、胸の奥からこみ上げるのは、悔しさだった。 「……私は、皇太子だというのに……」  ぎり、と奥歯を噛み締める。  王の命令ひとつで、大切な人に手をかけさせるような仕打ちを、ただ黙って見ていることしかできないなんて。  リオールは拳を握りしめたまま、低く息を吐いた。  抑え込んでいた感情の波が、ゆっくりと形を成し始める。 「アスカを守れるのは……私しかいない」  ただ隣にいるだけでは、足りない。  優しく手を差し伸べるだけでは、何も変えられない。  だったら──変えればいい。  この理不尽を、国を。  アスカの涙を、二度と、見なくて済むように。  リオールは、そっと拳を開いた。  血の滲む掌を見つめながら、静かに言葉を落とす。 「……陛下に会わせろ。今すぐに、だ」 「はっ」  陽春は急いで廊下を駆けていく。  その後ろ姿を見送ると、リオールはわずかに目を伏せた。 「──殿下」  不意に声が掛けられ、そちらを一瞥すると、清夏がすぐそばにたっていた。 「先に手当を」 「……かまわん。放っておけ」 「それはできません。そのままではきっと、アスカ様が悲しまれます」  そう言われるとリオールは手を差し出すしかなかった。  医務官が足早にやって来て、手際良く傷の手当をする。 「殿下。陛下とのお話が終わり次第、こちらにいらっしゃいますか」  薄氷が尋ねると、リオールは「……そうだな」と言葉を紡ぐ。 「もしも、アスカが私を呼ぶのなら、必ずここに戻ってこよう」  それは少しの期待が込められていた。  発情期とはいえ、体を重ねなくてもいい。  フェロモンに反応して体が疼こうが、ただそばにいて見守ることはできる。 「アスカが目を覚ましたら、伝えておいてくれ。──私は、どのようなアスカも愛している」    薄氷は息を飲み、そうして確かに頷いた。

ともだちにシェアしよう!