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第56話
思い出すのは──怯えた目で自分を見た、アスカの顔だった。
涙に濡れた睫毛、恐怖が色濃く映る瞳。
震える声で、自分の名を呼んだときのあの表情が、焼きついて離れない。
リオールの肩が、ぶるりと揺れる。
嗚咽の代わりに、胸の奥からこみ上げるのは、悔しさだった。
「……私は、皇太子だというのに……」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
王の命令ひとつで、大切な人に手をかけさせるような仕打ちを、ただ黙って見ていることしかできないなんて。
リオールは拳を握りしめたまま、低く息を吐いた。
抑え込んでいた感情の波が、ゆっくりと形を成し始める。
「アスカを守れるのは……私しかいない」
ただ隣にいるだけでは、足りない。
優しく手を差し伸べるだけでは、何も変えられない。
だったら──変えればいい。
この理不尽を、国を。
アスカの涙を、二度と、見なくて済むように。
リオールは、そっと拳を開いた。
血の滲む掌を見つめながら、静かに言葉を落とす。
「……陛下に会わせろ。今すぐに、だ」
「はっ」
陽春は急いで廊下を駆けていく。
その後ろ姿を見送ると、リオールはわずかに目を伏せた。
「──殿下」
不意に声が掛けられ、そちらを一瞥すると、清夏がすぐそばにたっていた。
「先に手当を」
「……かまわん。放っておけ」
「それはできません。そのままではきっと、アスカ様が悲しまれます」
そう言われるとリオールは手を差し出すしかなかった。
医務官が足早にやって来て、手際良く傷の手当をする。
「殿下。陛下とのお話が終わり次第、こちらにいらっしゃいますか」
薄氷が尋ねると、リオールは「……そうだな」と言葉を紡ぐ。
「もしも、アスカが私を呼ぶのなら、必ずここに戻ってこよう」
それは少しの期待が込められていた。
発情期とはいえ、体を重ねなくてもいい。
フェロモンに反応して体が疼こうが、ただそばにいて見守ることはできる。
「アスカが目を覚ましたら、伝えておいてくれ。──私は、どのようなアスカも愛している」
薄氷は息を飲み、そうして確かに頷いた。
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