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第70話

■■■  翌朝。リオールは、どこか気の抜けた様子で机に向かっていた。  陽春が何か話しかけても、うわの空で返事をしない。  彼の意識は、まだ昨夜の出来事に囚われていた。  初めて愛しい人──アスカと口付けを交わした夜。  ほんのわずかな接触だったのに、胸の奥にはまだ、アスカの温もりが確かに残っている。  目を閉じれば、あの柔らかな唇の感触がすぐに甦るのだ。  照れたように見上げてきた瞳、鼓動が伝わるほど近づいた距離──思い出すたびに、自然と口元が緩んでしまう。  どこか欲しがるような瞳も、震えるような吐息も。  どれも、忘れられない。  まるで夢を見ていたかのようで。  こんなにも、幸せな朝は初めてだった。  ──それなのに、  ほんの数刻後、すべてが崩れ落ちた。 「──殿下ッ!」  扉が荒々しく開かれ、駆け込んできたのは、側仕えの寒露(かんろ)だった。  陽春の次に長く仕える男で、常に穏やかで冷静なはずの彼が、今は血の気の引いた顔で息を切らしている。  乱れた衣服、忙しなく動く目。  その異様な様子に、陽春が思わず眉を寄せる。 「寒露? 一体──」 「アスカ様に、毒が……っ、毒が盛られた模様です……!」  リオールは、凍りついた。  ガタッ──  椅子を弾き飛ばすように立ち上がったその瞬間、世界の音が遠ざかっていく感覚があった。  寒露の声はもう、耳に届いていない。  ただ、アスカという名と『毒』という言葉が、脳内で何度も反響する。 「……毒とは、どういうことだっ」  声を発する代わりに、陽春が問いただす。  その怒気に寒露が震えながら答えた。 「っ……朝餉に何かを混ぜられたようで……詳細は、まだ分かりません! 医務官が急いで向かいましたが……!」 「っ、殿下っ!」  陽春に呼ばれ、リオールはようやく自分の呼吸を思い出すように、深く息を吸った。  ──落ち着け。  今は『皇太子』であれ。  冷静に、的確に、すべてを見極めなければ。  けれど、胸の奥で荒れ狂う感情はどうしようもなかった。  拳を握る手が震える。怒りと恐怖が入り混じり、理性が吹き飛びそうになる。  傷つけられた。  たった昨夜、唇を重ねたばかりの、愛しい人が。 「──アスカのもとへ向かう」  唸るような低い声でそう言い放つ。  拳には力が入りすぎて白くなり、爪が手のひらに食い込むほどだった。

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