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第79話
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「喉を痛めているので、暫くはいつものように声を出すことは難しいでしょう」
アスカが目を覚ました日の翌朝。
体を起こした彼の熱はすでに引いていたが、喉元に触れたその指がわずかに震えていた。声を出そうとして、出ないことに気づいたのだろう。困惑と不安が入り混じった表情を見せる。
そんなアスカに、医師は静かにそう告げた。
昨夜からずっと手を繋いだままでいたリオールは、寝台の傍で不安に顔を曇らせる彼に向かって、ふっと微笑む。
その笑みは穏やかで、静かで、まるですべてを包み込むようだった。
アスカの瞳がふるりと揺れ、少しだけ唇が緩む。張り詰めていた空気が、ほんの少しほどけた気がした。
「音が鳴るものを持ってこさせよう。何かあれば、それで合図を出してくれればいい。それから、紙と筆も。そうすれば会話ができる。だから、癒えるまで、ほんの少しの辛抱だ」
「……」
一度、小さく頷いたアスカが、繋がれたままの手に視線を落とす。
その手が、そっとリオールの手の甲を撫でた。
「……どうした?」
「……」
うるんだ瞳が、まっすぐに見上げてくる。
どこか縋るようで、どこか熱を帯びていて──まるで「触れてほしい」と訴えかけているかのようだった。
リオールは、思わず息を飲む。
不謹慎だと分かっていても、そんな視線を向けられれば、思ってしまう。
──口付けがしたい、と。
「……何か、ほしいのか?」
「……っぁ、」
「無理に声を出さなくていい。紙に書いてくれるか?」
胸の内に生まれた欲望を押し殺しながら、リオールは陽春を呼ぼうと手を動かしかけた、その時。
「っ!」
「んっ……」
ぐい、と胸元を引かれる。
瞬く間に距離が詰まり、次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れた。
目を閉じる暇もない、ほんの一瞬の口付け。
離れた後、視界に映ったのは、真っ赤に染まったアスカの顔だった。
「……く、ちづけが、したかったのか」
「っ、」
恥じらうように、小さく頷く。
リオールは小さく笑い、そっと額に唇を落とした。
「嬉しい。でも……無理はしないでくれ。癒えてからでも、遅くはない」
「……」
「そんな顔をするな。治ったら……いくらでも」
アスカは恥ずかしさと喜びが入り混じったように頬を緩めたが、次の瞬間、はっとしたように目を見張った。
そして、リオールの胸元に視線を落とす。
引き寄せた際にできた皺を、申し訳なさそうに何度も撫で始めた。
「……このくらい、構わない。大丈夫。安心しなさい」
けれど、アスカは明らかにしょんぼりしてしまい、表情を曇らせる。
その姿がいじらしくて、リオールはそっと彼の頬に口づけた。
ぱちりと目を瞬いたアスカは、自分の頬に手を当て──目を細める。
その表情はどこまでも穏やかで、どこまでも嬉しそうだった。
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