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第92話
ひとしきり笑い終えると、ひと口の大きさに切られた林檎が、アスカの目の前に差し出された。
「ひとつ、食べてみてくれ」
「……っ、」
「大丈夫。怖くなったなら、吐き出してもいい」
リオールの眼差しは、まるで春の陽だまりのようだった。決して強要せず、ただそっと差し出される優しさがそこにはあった。
アスカは、ほんの少し震える手で彼の空いた手に触れた。
何も言わずとも、彼はその手をしっかりと包み、繋いでくれる。
その温もりに背中を押されて、ゆっくりと口を開けた。
リオールの指先が、林檎の欠片をそっと唇に運ぶ。
緊張と不安で胸がいっぱいになる中、アスカは覚悟を決めて、それを口に含んだ。
──しゃくっ。
小さな音と共に、果汁が舌の上に広がる。
その瞬間、アスカの目からふっと涙が零れた。
甘い。
優しい味がする。
そこには、誰かの悪意も、恐怖もない。
ただただ、リオールが自分のために剥いてくれた果実の、まっすぐな味。
口元をほころばせ、唇の形だけで「おいしい」と伝えると、リオールはほっとしたように微笑んだ。
「よかった……」
彼の手が、アスカの頬にそっと触れる。
温かい手。触れるだけで、胸の奥に滲んでいた恐怖が溶けていくようだった。
「まだあるぞ。……形は歪だが、味は変わらないはずだ。食べるか?」
アスカは、涙を滲ませたまま、小さく頷いた。
泣きながら、でも笑いながら。
この甘さが、少しだけ未来の味に思えた。
□
林檎を食べ終えたあと、アスカはリオールがふいに漏らした欠伸を噛み殺すのを見逃さなかった。
今回のことで、ずっと休みなく動いていると聞いている。
自分のために、犯人を追い、真実を求めて。
自分のことで精一杯だった心が、ようやく少しだけ余裕を取り戻していた。
リオールの疲れに気づけた自分が、ほんの少し、誇らしい。
アスカはそっと彼の服の袖を引いた。
リオールは気づいて、優しい笑みで見下ろしてくる。
「どうした? まだ食べるか?」
「……」
「違うか」
首を振って否定し、奥の寝台を指さす。
「ん? 眠いのか?」
「……」
唇を動かして『リオール様が』と伝えると、彼は目をぱちくりさせてから、口元を緩めた。
「私は眠たくないぞ」
「……」
アスカは、そっと彼の目の下にある薄い隈を指先でなぞった。
その柔らかな仕草に、リオールは目を細める。
「……寝てほしいのか?」
こくんと頷くと、彼は小さく息を吐き、笑った。
「わかった。それでは、少しだけ、ここで休ませてくれ」
「!」
そう言って抱き上げられたアスカは、思わず彼の肩を掴む。
そのまま寝台へと運ばれ、二人並んで身を横たえる。
同じ寝台にいる――その事実に、アスカは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「すまない。少しだけだから」
「……」
横たわったまま、リオールに抱きしめられる。
その腕の中で、彼が自分の胸元に顔を埋める。
その姿が、愛しくてたまらなかった。
アスカはリオールの黒髪に指を通し、何度も、そっと撫でた。
窓の外で風が葉を揺らす音が、やけに静かに聞こえた。
このひとときだけが、喧騒から切り離された、穏やかな世界だった。
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