118 / 207

第118話

 リオールは「そろそろ……」と準備を促す陽春の声を聞き、名残惜しさを抱えながら、アスカの額に軽く口づけを落とすと、寝台を離れた。  昨夜と今朝の甘い記憶が、まだ体のどこかに温もりを残している。  しかし、王には、果たさなければならないことがある。  衣を整えたリオールは、外に続く扉に手をかけてから、もう一度だけ振り返った。 「……いってくる。また、明日な」  小さく囁いた声に、掛け布中からちろりと覗いた琥珀の瞳が、恥ずかしげに瞬く。  その光景を胸に刻み、リオールは扉を開けた。 □  政務室へと歩く道中では、侍従や侍女たちが一斉に頭を下げる。  王の姿は、たとえ昨日即位したばかりでも、否応なく人々に緊張をもたらすらしい。  重厚な扉の先で、すでに数名の大臣らが待機していた。  彼らの視線がリオールに集まり、その場の空気が引き締まる。 「おはようございます、陛下」 「ああ。すぐに始めよう」  リオールは椅子に腰を下ろし、目の前に並べられた文書へと視線を落とす。  その中央にあるのは──アルドリノール卿の件だった。 「……この者の処遇について、意見はまとまったか?」  問いかけに、一人の大臣が一歩前に出て静かに頷く。 「はい、陛下。アルドリノール卿の不正を裏付ける帳簿は確かであります。また、関わりのあった者たちからも、その罪状を認める証言が出ております」  リオールは頷き、静かに瞳を伏せた。  政の裏で私腹を肥やし、弱者を踏みにじった男──それは決して見逃してはならない。 「……ならば、刑を執行せよ。アルドリノール卿には、死をもってその責を取らせる」  その場の空気がわずかに揺れた。  リオールの声音は決して強くなかったが、誰よりも重く響いた。 「畏まりました。処刑の準備は、粛々と進めさせていただきます」 「ああ。だが、静かに、誰にも気づかれることのないように」 「御意に」    このことがアスカの耳に届いたら、おそらく彼は──。  とても心優しい人だ。自身のせいで、誰かの命が失われたと知れば、心を痛めてしまうだろう。その時のことを考えるだけで、胸が苦しくなる。  うなずく大臣に目を向け、一度目を閉じ、一呼吸を置いてから、リオールは次の案件に目を向ける。 「葉月と、その妹の件は?」  今度は陽春が、控えめに進み出て答えた。 「姉の葉月は解放し、無事に保護した妹と共におります。妹の方は多少の衰弱が見られましたが、医師の診立てによれば安静にすれば回復するとのことです」 「そうか……」  リオールは小さく息を吐き、背凭れに深くもたれた。  あの姉妹は、アルドリノール卿によって翻弄され、苦しい日々を送るしかなかった被害者だ。   「二人は、王宮で保護する。葉月には再び、女官としての仕事を与えよう。妹も体調が回復次第、下働きから始めれば良い。学問や教養も受けられるように準備を」 「はっ……女官として、でございますか?」 「十分に勤まるはずだ。それに……安心して暮らせるようにしてやらねばならん」  その言葉に、周囲は静かにうなずいた。  ただ力で治めるのではない。人の痛みに寄り添い、癒すこともまた、王なのである。 「──他に、報告はあるか」  王のその言葉で、次の議題が上がる。  リオールはそれに静かに耳を傾けた。

ともだちにシェアしよう!