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第118話
リオールは「そろそろ……」と準備を促す陽春の声を聞き、名残惜しさを抱えながら、アスカの額に軽く口づけを落とすと、寝台を離れた。
昨夜と今朝の甘い記憶が、まだ体のどこかに温もりを残している。
しかし、王には、果たさなければならないことがある。
衣を整えたリオールは、外に続く扉に手をかけてから、もう一度だけ振り返った。
「……いってくる。また、明日な」
小さく囁いた声に、掛け布中からちろりと覗いた琥珀の瞳が、恥ずかしげに瞬く。
その光景を胸に刻み、リオールは扉を開けた。
□
政務室へと歩く道中では、侍従や侍女たちが一斉に頭を下げる。
王の姿は、たとえ昨日即位したばかりでも、否応なく人々に緊張をもたらすらしい。
重厚な扉の先で、すでに数名の大臣らが待機していた。
彼らの視線がリオールに集まり、その場の空気が引き締まる。
「おはようございます、陛下」
「ああ。すぐに始めよう」
リオールは椅子に腰を下ろし、目の前に並べられた文書へと視線を落とす。
その中央にあるのは──アルドリノール卿の件だった。
「……この者の処遇について、意見はまとまったか?」
問いかけに、一人の大臣が一歩前に出て静かに頷く。
「はい、陛下。アルドリノール卿の不正を裏付ける帳簿は確かであります。また、関わりのあった者たちからも、その罪状を認める証言が出ております」
リオールは頷き、静かに瞳を伏せた。
政の裏で私腹を肥やし、弱者を踏みにじった男──それは決して見逃してはならない。
「……ならば、刑を執行せよ。アルドリノール卿には、死をもってその責を取らせる」
その場の空気がわずかに揺れた。
リオールの声音は決して強くなかったが、誰よりも重く響いた。
「畏まりました。処刑の準備は、粛々と進めさせていただきます」
「ああ。だが、静かに、誰にも気づかれることのないように」
「御意に」
このことがアスカの耳に届いたら、おそらく彼は──。
とても心優しい人だ。自身のせいで、誰かの命が失われたと知れば、心を痛めてしまうだろう。その時のことを考えるだけで、胸が苦しくなる。
うなずく大臣に目を向け、一度目を閉じ、一呼吸を置いてから、リオールは次の案件に目を向ける。
「葉月と、その妹の件は?」
今度は陽春が、控えめに進み出て答えた。
「姉の葉月は解放し、無事に保護した妹と共におります。妹の方は多少の衰弱が見られましたが、医師の診立てによれば安静にすれば回復するとのことです」
「そうか……」
リオールは小さく息を吐き、背凭れに深くもたれた。
あの姉妹は、アルドリノール卿によって翻弄され、苦しい日々を送るしかなかった被害者だ。
「二人は、王宮で保護する。葉月には再び、女官としての仕事を与えよう。妹も体調が回復次第、下働きから始めれば良い。学問や教養も受けられるように準備を」
「はっ……女官として、でございますか?」
「十分に勤まるはずだ。それに……安心して暮らせるようにしてやらねばならん」
その言葉に、周囲は静かにうなずいた。
ただ力で治めるのではない。人の痛みに寄り添い、癒すこともまた、王なのである。
「──他に、報告はあるか」
王のその言葉で、次の議題が上がる。
リオールはそれに静かに耳を傾けた。
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