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第163話

 会議室を後にしたリオールは、静かな廊下を歩いていた。  足取りは落ち着いていたが、その胸の内は、わずかに波立っていた。  王妃からの提案書。  それを初めて目にした時、その文字は拙く、震えていて、決して完璧ではなかった。  だが、そこに込められた意志だけは、誰よりも強く、確かなもので。  まっすぐ目を見て語った言葉と、何も違わなかった。  本当に──よく、ここまで……。  歩きながら、指先で胸元をそっと押さえる。  いつの間にか、心の奥にあった重たく冷たい石が、少しだけ溶けたような気がした。  彼はまだ未熟だ。  だが、その未熟さを恥じず、進もうとする強さがある。  ──そして、何より。  ……あの時、心から『誇らしい』と思ったのだ。  無言のまま、国王宮の扉を開ける。  机の上には、アスカが差し出した提案書の控えが置かれていた。  その表紙に、リオールはそっと指を触れる。  王妃として。  そしてアスカとして。  彼は、これからアスカがどう歩んでいくのかを、ただの傍観者としてではなく、共に支える者として見届けようと思っていた。  ──ゆっくりと、椅子に腰を下ろす。    アスカの始めた一歩が、誰かの明日を変えるかもしれない。  その希望を、リオールは信じたかった。 □  それから数日経った頃。  陽春が嬉々とした様子で書状を持ってきて、それを恭しく差し出してきた。 「炊き出しの準備が始まりました!」 「ほぉ」  リオールは手を止め、書状を受け取る。  開かれた紙には、配給の場所や人員の配置、必要な食材とその手配先など、細かく記された計画書が、確かに現実として動いていることを物語っていた。 「……早いな。まだ、提案から日も浅いというのに」 「王妃様の熱意に、皆が突き動かされたのでしょう。街の調査にあたった者の中には、炊き出しの手伝いを志願する者もおりました」  陽春の口調は淡々としているが、そこにはかすかな誇らしさも滲んでいた。  短く息をつき、視線を紙から外す。 「王妃の心が、届いたのだな」 「ええ。──王妃様の真っ直ぐな想いが、あの提案書から伝わったのでしょう」  ふっと微笑を浮かべたリオールは、机の上に書状を置き、静かに椅子に凭れかかる。 「そうか……。ならば、私もそろそろ、動かねばな」 「え……?」 「王妃にだけ任せるなど、王として情けがないだろう。しっかりと支えねばならん」 「ええ、ですが、どのように……?」  リオールは立ち上がると一つ伸びをし、軽く身支度を整える。 「少し、厨房を覗いてこよう。炊き出しの準備に加わる者たちの顔も見ておきたい」 「陛下自ら……? それは──」 「ただの視察だ」  そう言って歩き出すリオールの背に、陽春は小さく頭を下げた。

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