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第169話
薄氷の案内で、アスカは厨房から少し離れた静かな部屋に移された。
背を預けた寝椅子は柔らかく、包み込まれるような感触がした。
それでも吐き気の余韻は残っており、額にはまだ微かな汗が浮かんでいる。
さきほどよりは落ち着いたものの、全身が重く、少し息苦しさすらあった。
リオールはその傍を離れることなく、静かに寄り添っている。
握ったアスカの手は冷たく、細かく震えていた。リオールはその手を包み込むように両手で包み、時折、優しく親指を動かす。
「王妃様、少々失礼いたします」
やがて医務官が膝をつき、低く落ち着いた声で体調の問診を始めた。
アスカは、少し考えるように目を伏せながら、弱々しく答える。
「……食事はあまり……空腹ではあるのに、何も喉を通らなくて……」
「最近、夜はよくお眠りになれていますか?」
「……眠れます。むしろ、ずっと眠たくて、起きていても、ぼんやりしてしまって」
医務官は頷きながら、ひとつひとつ丁寧に聞き取っていく。
匂いに敏感になっていること、ここ数日の疲れ、朝方の吐き気──
言葉にしているうちに、アスカの中にあったぼんやりとした違和感が、だんだんと形を帯びていく。
同じような状態の母親を、見たことがあるような気がして。
「では、お腹の方を少し診させていただきますね」
アスカは小さくうなずき、隣のリオールの方を少しだけ見た。
そこには心配そうに見守る、穏やかな瞳がある。
「……大丈夫だ。ここにいる」
リオールはそう言って、アスカの手を握ったまま、もう片方の手でその髪を優しく撫でた。
その指先の温もりが、どこか心細かった胸の奥を、ほんの少しだけ溶かしていく。
アスカはそっと目を伏せ、小さく息を吐いた。
医務官は静かに腹部の触診を進めながら、やがてふと、わずかに眉を寄せる。
その動きに、リオールの瞳が鋭く動いた。
「……どうした」
一拍の沈黙の後、医務官は慎重に、言葉を選ぶように口を開いた。
「……すぐに断定はできません。ですが、王妃様のご様子──特に匂いへの反応、食欲と睡眠の変化、そして今朝の吐き気などから考えますと……」
そこで医務官の視線がアスカへと向かう。
アスカは戸惑いの色を浮かべながら、目を逸らすことができなかった。
「念のため、後日あらためて詳しい診察を受けていただいた方がよろしいかと存じます。おそらく……ご懐妊の兆候があるかと」
「……!」
空気が一瞬で変わった。
リオールの瞳が大きく揺れ、アスカは息を飲んだまま動けずにいた。
視線を落とすと、自分の手がわずかに震えているのがわかった。
それは、恐れか、驚きか、喜びか──まだ自分でも分からない。
「ですが、確定ではありません。どうかご安心を。まずは、しっかりとお休みになってください」
「……はい……」
アスカの返事はか細かったが、その声は震えていた。
新たな命の可能性に対する、純粋な驚きと……まだ整理のつかない感情の波の中にいるようだ。
部屋の空気は、静かに、確実に、変わっていた。
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