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第170話

 医務官が退室し、側仕え達も一度部屋を出ていく。  ふたりきりになったアスカとリオールは、何も言えないままどこか夢を見ているような感覚だった。 「アスカ、明日の炊き出しだが──」 「出ます。ちゃんと、最後までやり遂げます」 「なっ──いけない。それは、許可できない」  子どもが出来たかもしれない。それに対してはもちろん、純粋に嬉しいのだが、二人は国を背負うものとしての責任がある。  まずは明日のこと。国民のためを思う心を、忘れてはいけない。  アスカは嬉しさと、悔しさが綯い交ぜになった心を、リオールにぶつける。 「わ、私が始めたことを、私がやり遂げないなんて……そんなのは、あんまりです……っ」 「しかし、子がここにいるのなら、私はそなたに無理をさせたくない」 「っ、陛下、お願いです……」 「……どうしてそう、頑ななのだ。子が、いるかもしれないのだぞ。そなたが明日行おうと思っていたことは、夫である私が代わりに引き受ける。だから──」 「嫌、です」  リオールの言葉を遮る。  アスカの目には涙の膜が張っていた。 「私が頑な……? ──ええ、認めましょう。頑なになっています。だって……私が王妃になって、初めての仕事、なのですよ……?」  途中で放棄するような、そんな王妃だと思われたくない。  炊き出しは誰かにとっては些細なことかもしれないが、アスカにとっては違う。 「あの子供を、街で倒れていた子供を、救いたい」 「……」 「どうか……私の我儘を、叶えてください」  リオールは、言葉を失ったままアスカを見つめる。  涙を滲ませたその瞳には、確かな意志が宿っていた。  簡単には引き下がらない強さ。  だがそれは、決して自己満足などではない──誰かのために、何かを為したいという、純粋な心の叫びだった。 「……アスカ」  呼びかける声は、さっきまでよりも少しだけ柔らかい。 「分かった。……明日、そなたがどうしても行くというのなら、行くがいい」 「──っ」 「だが、それには条件がある」  アスカが目を伏せかけた瞬間、リオールはその手を再び握り、静かに続けた。 「無理はしないこと。少しでも具合が悪くなったら、必ず休むと約束すること。……そして、私も一緒に行く」  その言葉に、アスカはゆっくりと顔を上げる。 「え……?」 「夫として、そなたを守る責任がある。……王としてではなく、明日は王妃の補佐として動こう」  真剣な眼差しでそう言ったリオールの表情に、アスカの胸がじんわりとあたたかくなる。 「……ありがとう、ございます」  ぎゅっと、リオールの手を握り返す。  涙はまだ乾かないけれど、アスカの瞳には小さな決意が宿っていた。

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