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第176話

 陽春が兵士たちに手振りで指示を出すのが、ぼんやりと視界に映った。  誰かが──誰かが、自分を押した。  でも、誰なのかは見えなかった。目も、声も、何も。  震える体をリオールの腕に預けたまま、アスカは強く目を閉じた。  嫌な予感と、不安と、怖さとが、腹の奥からこみ上げてくる。 「アスカ、すぐ戻るから、このまま私に身を任せてくれ」  リオールの声が、遠くで聞こえる。  アスカはうなずくこともできず、ただ抱きかかえられるまま、輿に乗せられた。  揺れる輿の中で、アスカはそっと両腕を腹に回す。  ──もし、何かあったら。  そんな考えが頭の中でぐるぐると回るたび、冷たい汗が背をつたう。 「もうすぐ着く。大丈夫、異変があれば、すぐにでも対処できるようにしているから」  手を握られた。リオールの手はあたたかくて、強くて、それでも不安の波は収まらない。  でも、その手を離すのがもっと怖くて、アスカは必死に握り返した。   □  王宮に着くと、後宮で待っていた医務官がすぐに診察に取りかかった。  脈を測られ、服の上からそっと腹部を触れられるたびに、心臓が跳ねる。  何も言われない沈黙が、怖い。 「……現状、腹部をしっかり庇われたためか、大きな外傷は見られません。ですが……おそらく、妊娠初期ですので、今夜から数日は安静に。念のため……明日にも、改めて確認しましょう」  ほっとするべき言葉なのかもしれない。  けれど、アスカは頷くこともできず、ただ胸元に手を置いたまま、じっとしていた。  心の奥ではまだ、あの押された感覚が、抜けきらなかった。  視界の隅に、リオールの姿がある。  それがどれほど心強いものか、わかっているのに。 「……私が、わたしが、気を、抜いてしまった、ばかりに……」  掠れた声がこぼれる。  どうして、もっと気をつけなかったのか。  どうして、こんなことに……。  そのとき、そっと肩にあたたかい手が添えられた。 「アスカ、それは違う」  リオールの声は静かで、やさしかった。  目を向けると、彼はまっすぐにこちらを見つめていた。 「気を抜いていたんじゃない。ただ、民たちを信じていただけだ」  言葉が胸に沁みた。  痛みではなくて、じんわりと、涙がにじみそうになる。 「何かあったときは、今度こそ、私が守る。だから、そなたは信じたままでいていい。怖がらなくていい」  リオールの手が、アスカの手をそっと包む。  そのぬくもりに触れて、ようやく少しだけ、呼吸が深くなった。  

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