176 / 207
第176話
陽春が兵士たちに手振りで指示を出すのが、ぼんやりと視界に映った。
誰かが──誰かが、自分を押した。
でも、誰なのかは見えなかった。目も、声も、何も。
震える体をリオールの腕に預けたまま、アスカは強く目を閉じた。
嫌な予感と、不安と、怖さとが、腹の奥からこみ上げてくる。
「アスカ、すぐ戻るから、このまま私に身を任せてくれ」
リオールの声が、遠くで聞こえる。
アスカはうなずくこともできず、ただ抱きかかえられるまま、輿に乗せられた。
揺れる輿の中で、アスカはそっと両腕を腹に回す。
──もし、何かあったら。
そんな考えが頭の中でぐるぐると回るたび、冷たい汗が背をつたう。
「もうすぐ着く。大丈夫、異変があれば、すぐにでも対処できるようにしているから」
手を握られた。リオールの手はあたたかくて、強くて、それでも不安の波は収まらない。
でも、その手を離すのがもっと怖くて、アスカは必死に握り返した。
□
王宮に着くと、後宮で待っていた医務官がすぐに診察に取りかかった。
脈を測られ、服の上からそっと腹部を触れられるたびに、心臓が跳ねる。
何も言われない沈黙が、怖い。
「……現状、腹部をしっかり庇われたためか、大きな外傷は見られません。ですが……おそらく、妊娠初期ですので、今夜から数日は安静に。念のため……明日にも、改めて確認しましょう」
ほっとするべき言葉なのかもしれない。
けれど、アスカは頷くこともできず、ただ胸元に手を置いたまま、じっとしていた。
心の奥ではまだ、あの押された感覚が、抜けきらなかった。
視界の隅に、リオールの姿がある。
それがどれほど心強いものか、わかっているのに。
「……私が、わたしが、気を、抜いてしまった、ばかりに……」
掠れた声がこぼれる。
どうして、もっと気をつけなかったのか。
どうして、こんなことに……。
そのとき、そっと肩にあたたかい手が添えられた。
「アスカ、それは違う」
リオールの声は静かで、やさしかった。
目を向けると、彼はまっすぐにこちらを見つめていた。
「気を抜いていたんじゃない。ただ、民たちを信じていただけだ」
言葉が胸に沁みた。
痛みではなくて、じんわりと、涙がにじみそうになる。
「何かあったときは、今度こそ、私が守る。だから、そなたは信じたままでいていい。怖がらなくていい」
リオールの手が、アスカの手をそっと包む。
そのぬくもりに触れて、ようやく少しだけ、呼吸が深くなった。
ともだちにシェアしよう!

