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第185話
イサクは苦く笑ったまま、ルカを中へと招き入れた。
狭い部屋には、使い古された椅子。
埃っぽい空気のなかに、酒と古い布の匂いが滲んでいた。
「──それで、キクリが何を言った?」
「イサクって男が、あの炊き出しの日、王妃様を狙っていた、と」
「……チッ、口が軽ぇ奴だ」
彼は苛立つでもなく、ただ遠い目をして呟いた。
それはもう全てを諦めているかのような、そんな眼差しである。
ルカはその様子を黙って見つめながら、問いを投げた。
「……本当に、お前が、あの街の張り紙に書かれた通りに、王妃様の背を押したのか」
「……はっ、ああ、その通りだ」
「何故だ。あのお方にそんなことをする理由は……?」
ぐっと溢れそうになる感情を堪えて、静かに問い質す。
「──平民が、王妃になった。それだけで充分だ」
彼はぽつりと呟くと、手の甲を擦るようにして、続けた。
「俺の妻も、子も……貧しさの中で死んでいった。医者なんて呼べるわけもねぇ。寒さをしのぐ毛布一枚、国は寄越さない。王や貴族は、何をしていた? 民の声なんざ、誰も聞いちゃいなかった。──なのに……平民が、王妃だと? まさか今さら、平民だから民の痛みがわかるだとでも、言うつもりか……?」
ルカは目を伏せ、静かに受け止めるように頷く。
「……だから、許せなかった。見下ろされるようで……妻と子が、踏みつけられた気がしたのさ」
「……あんたの気持ちは、分かるよ。全てではないかもしれないけど、それでも」
ルカは小さく息を吐いて、イサクの正面に座り直す。
「──けどな、王妃様は、自分が平民だったことを隠していない。そして、何が民の為になるのかを知るために、実際に街を歩いて、人の顔を見て回っていた。あの人は、国民のために動いてくれる慈悲深いお方だ」
先日街で会った時、王妃となったことも告げなかった。
まるで村で会った時のように気さくであった。
服装だって地味で、護衛も見当たらなかったということはつまり、身分を隠した状態で視察に訪れていたのだろう。
ルカの言葉に、彼の目がかすかに揺れた。
「……身重だったんだろ、王妃は」
「ああ」
「……傷つけて、いたら」
「……それでもきっと、王妃様は、あんたのことを、哀れだと、許すと思う。俺は、そう思う」
イサクはただ、黙ったまま、片手で顔を覆う。
静かな部屋には、啜り泣く声だけがあった。
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