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第204話 ただの夫
アスカが王妃となり、リオールと番となってから数日。
先王──オスカーはリオールに告げることなく、少ない従者を連れて王宮を出た。
その足で向かうのは、エルデのもとだ。
追い返されるかもしれないが、しかし、それでも愛していることを伝えたい。
用意していた宝石や上等な衣を手に、彼女の元へ向かう。
先王が現れたことで、エルデの暮らす屋敷は慌ただしくなった。
何せ、なんの報せも届いていなかったので、歓迎をしようにも準備が出来ていない。
あわあわと従者達が走り回る中、エルデだけはスンとしていた。
王家に嫁いだわりに、質素な服を着て、しかし佇まいは凛としている。
ピンと伸びた背中は、威厳があって、艶の輝く黒髪は風に靡いてサラサラと揺れている。
「エルデ様! 先王オスカー様がいらっしゃいました!」
「──追い返して」
「なっ! そ、それは、さすがに……!」
「何の知らせもせずに来るだなんて、非常識だわ。非常識には、非常識で返すの」
会いたくないわけでは無い。
しかし、エルデは彼に会わせる顔がないのだ。
勝手に疑って、傷つけた。
いちばん信頼していたはずの相手を。
それでも彼は守ってくれた。
それが申し訳なくて、心が壊れてしまいそうで王宮を出たというのに、会いに来られるだなんて。
罵ってくれるのなら、断罪してくれるのなら、喜んでお受けするつもりだ。
けれど、彼はきっと、そうしない。
あの時守ってくれたように、きっと、今も──
「随分な言い草ではないか、エルデ」
「っ!」
近くで聞こえた懐かしい声に、肩がビクッと上がる。
振り返れば先王オスカーがいた。
「息災か」
「っ、へ、陛下、」
「今はもう王ではない。そなたと余の息子が、王となったぞ」
「ぁ……」
息子が、王となったことは知っていた。
しかし、彼の即位を祝う権利が、自分にはない。
自身の心を守るために、大切な子を置いてきたのだから。
「……貴方様のお子であって、私の子ではございません」
「何を言うか。リオールはそなたの子だ」
「……私は、母を名乗る資格などありません」
「では、余も父を名乗る資格は無いな。リオールには王になる為だけのことを教えたが、しかし、最も大切なことは、教えてやれんかった」
「大切な、こと……?」
エルデはゆっくりと視線を上げて、オスカーを見つめる。
彼はふっと目を細めて笑う。
「愛情について、余は何一つ教えられんくてなぁ」
「あ、愛情で、ございますか……?」
「ああ。しかし、リオールは聡明だ。アスカというオメガを娶り、愛情を育んでいきおった」
誇らしげなオスカーに、エルデは少し目を見張る。
「何があっても守ろうとするあの姿勢は、見習わねばならぬところもあるな」
「……」
エルデは静かに俯いた。
オスカーの語る様子を見て、リオールが良い人と一緒になれたとわかり、安心したのだ。
幼いリオールを手放し、一人にさせてしまった彼が、愛情に包まれているのなら、それは何よりも嬉しいこと。
「だから、余はここにきた」
「え……?」
「エルデと共に、余生を過ごしたい。余はそなたを愛している。そなたのことを守りきれなかった男に、もう一度機会をくれないか」
「! な、なにを、何を仰っているのですかっ!」
オスカーの言葉に、エルデは思わず立ち上がった。
「ま、守りきれなかった、ですって……!? 私は、間違いなく、貴方様に守られましたっ! 私ばかりが、守ってもらい、私は貴方様を守れなかった……っ!」
「……」
心がグラグラと揺れる。
あの頃のことが鮮明に思い出され、手が震えてしまう。
「私は……私は、貴方様を刺したのです……! 本当なら、この命をもって償わなければならないのを……貴方様が、お許しくださったのですよ……」
涙が溢れて、頬を濡らす。
犯してしまった罪に、心が壊れそうだったのを、彼が守ってくれた。
傷が痛むはずなのに、何度も足を運んで「大丈夫だ」と「気にするな」と言ってくれた。
「愛情を教えることができなかった? 貴方様ほど、愛が何かを知る方は、きっとこの世におりませぬ……!」
「エルデ」
「そんな貴方様と、私は一緒に居られません……っ! 私ほど、醜い心を持つ者と、貴方様のような方が、一緒にいるなんてこと……許されるはずがないのですっ!」
誰にも言わなかった心の内をぶつける。
全てを吐き出し、肩で息をするエルデを、オスカーは柔らかい眼差しで見つめていた。
「落ち着きなさい。エルデ」
「っ……」
「……余は、それでもそなたと共に在りたい。それがそなたを苦しめるとわかっていても、だ。これをそなたは愛情と呼ぶのか?」
「っ、」
「これから、余はそなたを苦しめることになる。だから……これはもう、お互い様というやつだな」
オスカーはハハッと笑った。
彼の言葉にエルデは力を失って、座り込んでしまう。
溢れる涙を止められず、手で顔を覆った。
そんな彼女の肩に、そっと上着がかけられる。
「風が冷たい。そなたは、昔から寒がりだった」
優しく語るその声に、エルデは小さくしゃくり上げる。
「──変わりませんね、貴方様は」
「そなたも、だ。意地っ張りで、まっすぐで……そういうところが、余は愛おしくてたまらん」
エルデは震える手で顔を拭い、ようやくゆっくりとオスカーを見上げる。
「……私は、許されないと思っていました」
「許すとか、許さぬとか、そういう話ではない。余はただ、そなたと共にいたいだけだ。王でも、先王でもなく──ただの夫としてな」
その言葉に、エルデの目がまた潤む。
「……それは、随分と……わがままな申し出ですね」
「そうだとも。そなたに嫌われるかもしれぬと覚悟してきた。だが、こうして会ってもらえただけで、余はもう幸せ者だ」
「……もう、本当に……どうしてそんなに……」
ぽつりと呟いたその声には、呆れと愛しさが混ざっていた。
「少し、時間をください。すぐには答えられません。ですが、私も……貴方様を、忘れたことはありません」
「うむ。幾らでも待とう。何年でもな」
オスカーは穏やかな微笑を浮かべたまま、立ち上がった。
「今日はもう戻る。従者たちが騒がしくしてしまったな。明日、また来る。良いか?」
「……はい。お待ちしています」
そうして、長い時を隔てて向き合った二人の心は、ようやく、少しだけ寄り添い始めたのだった。
【ただの夫】 完
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