2 / 32
*
線路を越えてぽつぽつと家が並ぶ田園の道を進んでも、看板のカフェらしき店はなかった。その先のテムズ川を渡って少し行くと、右手に小さな丘と分岐路が現れた。丘に登る道の角には先ほどと同じ看板があって、これで店名の『HILLOCK』がわかった。
丘を見上げても、ふもとの林で先が見えない。緩やかな坂を2分も登って林を抜けると、丘のてっぺんにぽつんと佇む家があった。その右脇には駐車場があり、車と自転車が並んでいるのを見れば、どうやら店舗らしかった。
家の壁を這う藤の花は今が旬で、壁を覆い隠さんばかりに咲いている。お陰で全容はわからないが、2階建ての恐らく石造りの家は、屋敷と呼ぶほど大きくはないが、古く立派な物に思えた。
エントランスに寄ってみると、藤が垂れた大窓からカフェらしい中が見えた。駐車場はともかく、ドア脇の小さな『HILLOCK』の看板とドアの「OPEN」のプレートが目に入らなければ、ガーデニング好きな夫婦が住んでいる家にしか見えない。
思い切ってドアを開けると、コーヒーと甘やかで香ばしい匂いが香った。
ヴェールのようにふわりと僕を迎えた香りに、よさそうな店だと思う。
藤が覆う外見からはわからなかったが、大きな窓が日を取り込む店内は、とにかく明るく、気持ちがいい。とりわけ、入って正面の壁のほとんどが窓で、そこから南に面したテラスが続いていて開放的だ。
全体的に淡い琥珀色の内装はトラディショナルな趣(おもむき)だが、古臭く感じないのは、アンティーク家具とモダンな調度品や置物、それに絵画や観葉植物がすっきりレイアウトされているからだろう。
客席のテーブルは6つ、厨房前のバーカウンターにはスツールが4つ。飾りではない暖炉の前にはローテーブルとソファの席があり、それぞれ間隔を空けて、ゆったり広々としている。厨房の脇には階段があるが、上階に客席はないらしい。こちらも光がよく入った踊り場には、綺麗な花が置かれていた。
カウンターの客のオーダーを取った赤毛の女性店員に「お好きな席にどうぞ」と言われて、左の一番手前のテーブルに掛けた。テラス席がよかったが、あいにく2テーブルとも埋まっていた。
アルバイトらしい若い女性店員は、恐らくこの辺りの学生だろう。利発そうだが、看板で売りにするほどのSMILEがなくても気にならないのは、食事を終えて一息つくまでに、すっかりこの店が気に入っていたからだった。
頼んだチーズペンネとサラダのセットは、期待以上に美味かった。サラダのドレッシングは甘いコーンの味がして、初めて食べたが好物になった。毎日だって食べたい。
そして何より、僕は、この店の不思議と落ち着く柔らかな静寂に興味を惹かれていた。
が、静寂と言っても、本当に無音なわけではない。
始めのうち、僕の他に3組の客がいたが、どの客達の会話もなぜか耳に入ってこなかった。そして、他のことに気を取られているうちにいつの間にかいなくなり、気がつくと別の客が入店し、席に収まっている。こんなことが何度もあった。
客達は皆、常連か何度か来たことがあるらしく、グループは和やかに語らい、そうでなければ思い思いに過ごしていた。馬鹿騒ぎするような者はおらず、客層のよさが伺える。“隠れ家カフェ”とはよく言うが、この店にぴったりの言葉だと思う。
当然、例の店員の女性もオーダーと提供時に声を出すし音も立てるのに、どういうわけか耳を素通りする。また、店員はもう一人男性がいるようで、たまに厨房から出てくるが、用が済めば掻き消えるようにいなくなっていて、妙に存在感が薄かった。
店内にはモダン・ジャズのBGMが小さく流れているが、あえて聞かなければ耳に入らない。また、不思議なことに、コーヒーのサイフォンがコポコポいう音が、微かなのに最も耳につく。その次は厨房の奥の調理音だが、いずれも心地よい環境音のようにそこにあった。
特に「静かに」というお決まりはないようだが、この不思議な静寂は、僕のような一見(いちげん)の客や外国人観光客が雰囲気を乱していないのも大きな理由だろう。
と考えると、積極的に客を呼ぶ気のない看板にも納得がいく。ホームページを見てみると、洒落てはいるがシンプルで、店の基本情報と主なメニューしか載っていない。ギャラリーの写真は数枚で、店の心地よさを伝える気は見えず、今時SNSのアカウントもない。馴染みの地元の人間が来れば、十分らしい。
この店の不思議な静寂の理由はともかく、こんな様子だから、何をするにしても、びっくりするほど集中できる空間だとわかってもらえるだろうか。
PCでメールをチェックしている間、ふとプロットの断片が浮かんだ僕は、気がつけば、2時間もアイデアを書き出していた。オックスフォードに来て今日まで、一向に書く気にならなかったのだから驚くべきことで、この店のお陰でしかなかった。
こうして僕は、本当に思いがけなく、このオックスフォードの外れで理想的な執筆場所を見つけたのだった。
ともだちにシェアしよう!

