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プロットを書いていればイメージも広がり、勢いに乗って原稿に着手しようと思い至ったところで、時間は17時を過ぎていた。
テーブルには《ごゆっくりどうぞ》と書かれたカードが置かれているが、4時間以上も居座っていたことになる。この間、コーヒーとお茶を全部で3杯頼んでいても、さすがに気が咎めた僕は、荷物をまとめて会計に立った。
エントランスを入ってすぐのレジがある所は雑貨屋のような小部屋になっていて、壁際の棚には本やレコードやCDが陳列されている。本もレコードの類も年代やジャンルは多彩だが、ラインナップは僕と同世代の人間のコレクションに見える。全てユーズドで売り物らしいが、本棚には「ご自由にお読みください」と張り紙があり、積極的に売る気はないらしい。
レジカウンターの側には絵葉書(オックスフォードの風景写真か絵のプリントだ)のスタンドがあるが、誰が買うんだろうか。人を呼ぶ気がないカフェからして、商売というより、店主の趣味か道楽のようなものかもしれない。
カウンターのベルを鳴らすと、レジスターに貼られたメモが目に入った。《次の金曜は臨時休業です》とあり、ホームページに出せばいいのにと思うが、常連は見ないのだろう。
少しして、あの影の薄い男性店員がやってきて、僕にニコリと会釈をした。
その感じのいい笑顔に意表を突かれた僕は、看板のSMILEって彼のことかと妙に納得していた。
柔らかくカールした明るいブルネットの髪が、日差しを浴びて金に透けている。温和そうな目元は落ち着いていて、思慮深そうな印象を受けた。年齢は僕くらいか、伝票を持つ左手も、レジを打つ右手にも指輪はしていない。
レジを打ち終えた彼は特に何も言わず、表示額を示して軽く微笑んだ。
白い肌に映える赤い唇と、白くきれいな歯列につい目を奪われながら、何も言わない彼に違和感を覚えた。
「お釣りはいりません」と紙幣を出して、「長居してすいません」と謝ると、彼は目を丸くして僕を見つめた。
灰青にも青緑にも見える瞳の色は、あまり見たことがない気がした。
そして、全く構わないとでも言うように首を横に振った彼は、にっこり笑った。
「…」
思わず、見惚(みと)れてしまうほど、笑顔が素敵な人だった。
恐らく、彼がここの店主なんだろう。
「…じゃあ、ごちそうさまでした」と言うと、彼は『ありがとうございました』と“唇だけ動かした”。
言葉の代わりに漏れた小さな息が聞こえた時、やっと僕は、彼は喋ることができないのだと気がついた。
そして、各所に置かれたメモ書きに納得がいって、なんとなく、この柔らかな静寂は、この彼の店だからだろうと腑に落ちていた。
ドア脇のプラントスタンドに置かれた『HILLOCK』の名刺を取って外に出ると、空は依然、清々しく晴れ渡っていた。
名刺で営業時間を確認した僕は、既に明日は何を食べようか楽しみにしていた。
窓を覗くと、いそいそと厨房に戻っていく店主の後ろ姿が見えた。
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