5 / 32

それから執筆に集中し、4時を過ぎたところで、最初のアイスコーヒーから数えて3杯目のミルクティーを頼んだ。すると、ティーセットにはビスケットが5枚添えられていた。確か、メニューにはクリームティー(お茶とスコーンのセット)といくつかのケーキセットはあるが、ビスケットはなかったはずだった。 店員の男性にお菓子のセットは頼んでないことを伝えると、彼は「お茶の時間だからだと思いますよ、ちょっと遅いけど」とさらっと言った。 「サービス?」 「ええ…そのビスケット、ウィルのおやつです」 彼が厨房の方に顔を向けて、店主の名前をまだ知らなかった僕は、つい、身を乗り出していた。 「ウィルって、厨房にいる彼のこと?」 「ええ」 「おやつ?」 「おすそわけ的な?僕もさっきもらいました」 「彼…ウィルさんはここのオーナー?」 「そうですけど」 「君はアルバイト?」 「ええ」 「ちょっと聞きたいんだけど、ウィルさんて、その…どんな人かな?」 怪訝な顔で見られたが、おかげで、僕のようなよそ者が来ることは滅多にないことがわかった。 「どうって…いい人ですよ、シフトの時間とか融通きかせてくれますし」と答えた彼は、別の客に呼ばれていなくなった。 期待の回答ではなかったが、“おすそわけ”は気に入った。茶色いビスケットは、蜂蜜の味がしたがさっぱりしている。お茶に浸して食べてみると、ミルクの甘味が蜂蜜を引き立てて、とても美味(うま)かった。 バイトの彼の話しぶりからして、こういったことは珍しくないらしい。だとしても、ちょうど小腹が空いてきたところで、気の利いたサービスが嬉しかった。 執筆を切り上げたのは、17時半。クローズは18時だが、閉店まで粘るのはさすがに遠慮した。 会計に立つと、現れた店主がニコリと会釈をくれた。 ようやく、その小さな笑みを目の当たりにできただけで、来てよかったと思える。 「ビスケット、ありがとうございます」と伝えると、彼はレジを打つ手を止めた。そして、そんなつもりはなかったのに、みるみる綻(ほころ)んでいく彼の顔に、つい、見入ってしまった時だ。 『気に入りましたか?』 彼がそう“言った”のがわかった瞬間、僕は、思いがけない感動と動揺でドキリとしていた。なぜなら、こんなにも自然に意思疎通ができることが、どこか想像できていなかったのだ。 実際、彼は声を出していない。 それでも、唇の動きと、小さく漏れた息の欠片と、嬉しそうな頬や、僕を伺う目元を見れば、彼の意図がはっきりとわかった。 「あっ、ええ…すごく美味しかったです、あのビスケット、初めて食べました」 『よかったです』とニコニコ笑った彼は、脇にあったメモ用紙にさらさらと走り書きをした。そして、《蜂蜜のビスケット、イタリアの「フロッリーニ」、最近のお気に入り》と書いたメモを見せてくれると、レジ打ちに戻った。 内容にもよると思うが、一言二言で伝わることは口で、長いセンテンスや情報量が多い時はメモで伝えるのが彼のスタイルらしかった。 「…あのビスケット、探してみます」 会計分より多めの紙幣を渡した僕に、彼は嬉しそうに頷いた。 そのまま、何かを返せば“会話”を続けられそうだったが、胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。 「ごちそうさまでした」とだけ伝えて店を出て、しばらく、自転車を押しながら彼のことを思い出していた。ほんの僅かな“会話”でも、言葉を交わせたことが無性に嬉しかった僕は、たぶん、彼のことが好きなんだろう。 それから、美味い酒が飲みたくなった僕は、自転車を返却したその足で繁華街へ飲みに出た。

ともだちにシェアしよう!