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Ch.3

次の日、木曜。 昼には『HILLOCK』に行ったのは、翌日早くにロンドンに帰らねばならず、できるだけ原稿を進めておきたかったのと、そうでなくても『HILLOCK』で少しでも過ごしていたかったからだ。 今日のランチは、シェパーズ・パイとサラダのセットを選んだ。サラダは言うまでもなく、パイの上のマッシュポテトがとても美味かった。 ランチ客が引いて柔らかな静寂が訪れると、店の時間は平地を緩やかに結ぶ運河のようにゆったり流れ始める。ロンドンにも至る所にカフェはあるが、ここほど安らげる場所は他に知らない。この店がロンドンにあったらいいのにと思うが、そんなことを言ったら、常連達にブーイングを食らうだろう。 そんな今日の客の顔ぶれは、半分が昨日と同じ。初めて見る顔は、若い男女のカップル、休憩に来たらしい初老の農夫、スケッチに絵の具で着色している中年女性、編み物をするマダムのグループ。 そして、テラスの常連、犬連れの老夫婦が今日はお茶の時間の前に帰り、席を移らせてもらおうと思った時だった。 ふくらはぎに柔らかい何かがぶつかって、覗くと黒い猫がいた。撫でてみた手に体を擦り付けてくる猫は、かなり人馴れしている。 「あー、ピース!邪魔しちゃだめだよー」 猫を捕まえようとした店員の女性(一昨日の赤毛の彼女だ)を「平気だよ」と止めると、猫が椅子を経由して僕のテーブルの上に乗った。 「ちょっと、ピース!」 「ああ、大丈夫」 「乗っちゃったけど、いいですか?」 「いいよ、ずいぶん慣れてるみたいだけど…ここの猫?」 「えぇ、ブラウンさん達がいる間はだいたい2階にいるんだけど、帰ると出てくるんです」 「ブラウンさん?って、犬連れの?」 「そう、テラス席の…ピース、びびりだから」 「2階ってーーー」 「ウィルとピースが住んでます」 「そうなんだ」 僕のPCの左で丸くなったピースを撫でてみると、猫は金色の瞳を細めた。 「珍しい、ウィル以外にはあんまり近寄らないのに」 「そう聞くとますます嬉しい…ちょっといいかな?」 「何か?」 「ウィルさんって、どんな人?」 「どうって…優しくていい人ですよ」 「みたいだね」 「ウィルに用があるなら呼んできましょうか?」 「ああ、そういうんじゃないんだ、大丈夫、ありがとう」 毛繕いを始めた猫をそっとして、しばらく執筆を進めた後で、今日はクリームティーを頼んだ。 そして、お茶を楽しんでいると、新しい客が斜め向かいのテーブルに通された。40代半ばくらいの女性で、バッグから手帳とノートを取り出した。きちんとしている様子を見るに、役所かカレッジ勤めか、秘書業だろうか。それだけならそう気にも留めなかったが、彼女の元にオーダーを取りに来たのは店主の彼で、思わず背筋が伸びた。 すると、『こんにちは』と口を動かして挨拶を交わした2人は、手話で会話を始めた。彼女はこちらに背を向けていて、店主の顔がよく見えた。 恐らくだが、彼らは近況を伝え合い、ちょっとした世間話をした後で、オーダーを取った店主は、厨房に戻った。 彼女とは、旧知の仲なのだろう。僕が知る笑顔の何倍もニコニコとして、大きく頷いたり首を振ったりと楽しそうに話す店主を拝んで満足した僕は、幸せな気持ちで執筆に戻った。 閉店の10分前まで執筆を粘らせてもらった今日は、僕が最後の客だった。 会計時。ニコリと会釈をくれた店主は、連日の僕の長居を迷惑がっているようには見えなかった。 彼に「猫、ピースがきましたよ」と言うと、彼は少し驚いた後で、『すいません』と焦りを見せた。 「構いませんよ、猫は好きだし、おとなしく寝てました」 そう言うと、ほっとしたらしい彼は、メモに《とても珍しいです、ピースはあなたが好き》と書いて、ニコリとした。 そして、『あっ』と何かを思い出したらしい彼は、レジスターの《次の金曜は臨時休業です》のメモを僕に示した。 「あぁ!ありがとう、大丈夫です、明日はロンドンに帰るので…」 『…?』 僕の言葉に眉をひそめた彼は、少しして、なるほどみたいな顔でペンを取ると、《このあたりに住んでると思ってました》と書いて苦笑した。 「だったらよかったんですけどね…」 そう言うと、彼は、残念そうに微笑(わら)った。 「じゃあ、ごちそうさまでした…またいつか、来ます」 静かに頷いた彼に会釈して店を出ると、なんとも寂しさを覚えた。 窓の向こうにレジを締めている彼が見えた時、最後に笑ってもらえるようなことを言えばよかったと思った。 そして、いつの間にか降り出していた雨に濡れながら、宿に戻った。 * * * ロンドンに戻り、いくつかの予定をこなしながら数日経つうちに、僕は、困った事態に陥っていた。 原稿が、書けなかった。『HILLOCK』であれだけスムーズに書けていたものが、嘘みたいに手詰まったのだ。 プロットは固めたし、途中までできているから続きを書けばいいだけなのに、文が出てこない。なんとか出てきても気に入らず、3行分を1時間かけて書いては消し、また書いてはやり直しの繰り返しで、一向に進まなかった。 そして、オックスフォードから帰ってきて9日後。 日曜日の夕方。 この先の予定を全て調整して、すがるような思いでオックスフォード行きの電車に飛び乗った頭の中は、『HILLOCK』に戻ることしか考えていなかった。

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