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Ch.5

そして、昨日の遅れを取り戻すべく、執筆に取り組んでいた木曜日。 お茶の時間を過ぎた頃、珍しくテラス席の常連マダム達が帰っていき、運よくそこに移らせてもらうことになった。 屋根付きのテラスにはテーブル席が2つ。右側にはいつものビーグル連れの老夫婦がいて、僕に軽く会釈をくれた彼らは、すぐにふたりと1匹の世界に戻った。 南に面したテラスは、小さなガーデンに取り囲まれている。その向こうには南東にオックスフォードの眺望が広がっていて、幸運にもよく晴れた今日は、青空の下、蜂蜜色の建造物群と豊かな緑が織りなす見事な景観を見渡すことができた。 お茶とスコーンで一息ついてから街を眺めていると、酷い眠気を覚えて、テラスの端に置かれたデッキチェアに移ってみた。前回のオックスフォード滞在から今日まで、休みらしい休みを取っていなかったからか、疲れが溜まっているらしい。体を横たえれば快適で、日陰のそよ風は心地よく、目を閉じるとバカンスをしているようだった。 肩を軽く叩かれて目を覚ますと、僕を覗く店主の顔が見えて、眠り込んでいたことに気がついた。 「…ああ!すいません、うっかり寝てしまって…」 慌てて体を起こそうとすると、彼は『静かに』と口に人差し指を当てて、その指で僕の腹のあたりを指した。 見ると、左の横腹の脇でピースが丸まって寝ていた。 「…あぁ、今何時だろう」 首を回して右を見れば、老夫婦はいなかった。店の中も客の姿はなく、店員の男性が片付けをしている。スマホを見ると、閉店時間の18時を過ぎていた。 「もうこんな時間!?マジか…すいません、しばらくろくに休んでなかったから…」 謝る僕に、彼は『構わない』とマグカップを差し出した。 「…?ありがとうございます」 マグのお茶は、レモンとミントの爽やかな味がした。目覚ましにどうぞということだろうか。 「美味しい…」 店に戻ろうとした店主に「貴方も一緒にどうですか?」と声をかけてみると、彼はニコッとした。そして、自分のマグとおやつのビスケットを持って戻った彼は、僕のテーブルに静かに掛けた。 「…ここ、素晴らしい眺めですね」 『ええ』と深く微笑んだ彼は何かを言おうとしたが、メモとペンがなかった。 また店に戻ろうとした彼を呼び止めて、スマホを掲げた。 「あ、ちょっと待って…」 『?』 「話すの、SMS使ったら楽じゃないですか?」 『そうだ』と目を丸くした彼は、スマホを取り出した。 電話番号を伝えると、彼はすぐに《ウィルです》とメッセージをくれた。 「ありがとうございます」と言った直後、《敬語はやめませんか、堅苦しい》とメッセ。 「入力早いですね」と吹き出してしまうと、《慣れてる、なんで思いつかなかったんだろう》と続けた彼は、吐息で『ははっ』と笑った。そして、街の景色を眺めた柔らかな目を、スマホに落とした。 《あなたの仕事は?》 「…あぁ、作家…って言えばいいかなーーー」 《今書いてのは本?》 「本もたまに、だけどメインは演劇の脚本…今は芝居の脚本を書いててーーー」 『すごい』と顔を向けた彼は、僕を眩しそうに見つめた。 「そんな大したことないですよ」 《敬語!》 「あぁ…つい、すいません…」 冗談っぽく顔をしかめてみせて、彼はスマホを覗いた。 《書いてるのは、このあたりが舞台の芝居?》 「あぁ、場所は関係ないよ、現代劇のミステリーだけど」 《じゃあ、どうしてわざわざオックスフォードに?》 《大学OB?》 「違うよ、縁もゆかりもない…実際、前回の滞在で来たのが初めてだった」 彼は、不思議そうに首を傾(かし)げた。 「…実はしばらくスランプ気味で、全っ然原稿が書けなくてうんざりして、気分を変えたくなって…場所を変えれば書けるかもって」 横を見ると、彼は、真っすぐ僕を見つめて聞いている。 そんな大した話じゃないのにと思いつつ、そのきれいな顔と、時々街を交互に眺めながら続けた。 「本当を言えば、新鮮な刺激が期待できるならどこでもよかったんだけど…オックスフォードにしたのは特別な事情があったわけじゃなくて、ちょっとした思いつきだった…まぁ、それなりに理由はあるけど…」 『どうして?』 「ほら、ロンドンから電車で50分ってアクセスがいいから、急に戻らなきゃいけなくなっても対応できるし…それと、アカデミックな街の空気に当てられて筆が乗るかもしれないし、場所柄、資料とか文献が手に入りやすいかも、って考えて…」 『なるほど』 「知ってる?この街には一般利用ができる図書館が30近くもあるんだ」 『それは知らなかった!』 涼しい目を丸めた彼は、大きく首を横に振った。 《観光はした?》 「うん、したよ、前回…この店に来る前に、まるまる3日間」 『どうだった?』とビスケットを勧めてくれた彼は、『美味しい』と笑った。 今日のおやつは、アーモンドが香ばしいクッキーだった。サクサクの食感も美味い。 「よかったよ、初めてだったし…ハリポタのオタクじゃないけど、クライスト・チャーチのホールとかあの中庭とか、ボドリアン図書館とか、実際行ってみればやっぱりすごく感動したし…」 《定番中の定番》 ニコニコしている彼はなんだかとても楽しそうで、聞き上手な人だった。 「だろうね…でも実は、一番テンション上がったのは、ハートフォード・カレッジの嘆きの橋を見た時…『モース※』に出てくる、子供の頃からよく見てたからね」(※オックスフォードを舞台にした人気刑事ドラマ) ぱっと顔を輝かせた彼は、『わかる』と頷いた。 「貴方は…オックスフォードの人?」 《そう、ノース・オックスフォードのもっと北のほうで育った》 「それで、今はここに?…あぁ、ここが家って女性の店員さんが教えてくれたんだ、赤毛の…」 《赤毛の彼女はリン》 《そう、僕はここに住んでる》 「じゃあ…貴方にとって、この、中世からの姿を留めた街の姿は当たり前なんだ」 《そう、だけど、いつ眺めても好き》 「うん、本当に、素晴らしいと思う…蜂蜜色の街と緑地のコントラストが美しくて…今日なんてよく晴れてるから、これ以上ないよね」 スマホのカメラで景色を撮ると、彼は『気に入った?』と僕を覗いた。 「うん、テラスの常連さんが帰らないわけだ、こんな、昼寝にうってつけのチェアまであるし」 『ははっ』と顎を軽く上げて笑った彼は、《予約して》とメッセした。 「いいよ、また、空いた時に来させてもらえれば十分…」 『わかった』 「…そういえば、店員のみんなはアルバイト?」 『そう』 「彼らもこの辺りの人?」 《みんな、オックスフォードの大学生だけど》 《出身はここじゃない》 「そうなんだ」 《それで、あなたの出身は?》 「あぁ…僕はロンドンのずっと南の小さな町で育った、貴方の育った辺りと似てるかもしれない」 《同じ田舎》とニッコリした彼は、《でも今は、都会の人》と言った。 「ロンドンの大学に行ったから、そのままね…」 《それで、観光してみて、何か執筆の刺激になった?》 「それが…残念ながらなかったんだ、街は楽しめたけどそれだけで…書きたくなるような、ここ!っていう場所も見つからなくて…さっき言った図書館もカフェも、公園とかガーデンのベンチもどこもしっくりこなくて…本当なら、ホテルがそうなら理想だったんだけどね、ワーケーションってやつ」 話している間、みるみる顔を曇らせた彼は、まるで自分のことみたいに『残念』と呟いた。 「だから、ちょっと冒険してみたんだ、自転車を借りて、まずは街の周りを一周してみようと思って…それで、チャーウェル川沿いを走ってたらさ、途中でーーー」 《トールキンのベンチ》 「そう!あれを見つけて嬉しかった、よく読んだからね…あのベンチで休憩したよ」 そう言うと、彼は嬉しそうにスマホを覗いた。 ニコニコして、《僕も『ホビットの冒険』に夢中になった、『指輪物語』にも》と教えてくれた彼が、愛らしい。 「あぁ、レジの売り場の本にトールキンの本や『ナルニア国物語』があったね…あれは貴方の?」 『そう』 「好きなのに売るの?」 《大丈夫、自分のはあるから》と言って、当然だと言いたげに眉を上げた彼は、『好きに読んで』と続けた。 「売り物じゃないの?」 《構わない》 「僕の本も置いてもらおうかな」 《まずは読まないと》 「今度送るか持ってくるよ…それで、自転車の話に戻るけど、西の鉄道沿いを、線路のこっち側を眺めながら走ってたらさ…」 『?』 「陸橋の所で、『HILLOCK』の看板を見つけた」 『ああ!』 たった今、例の看板を思い出したらしい彼は、そうだったのかと言うようにニッコリした。 「あの看板、店の名前がわからないから描き直したほうがいいよ」 《忘れてた、そうする》と言った彼は、大したことじゃないのかクスクス肩を揺らしている。 「客呼ぶ気、ないんだ」 《うん、あまり》 「それでさ、店があるの?って探してみて、半信半疑で丘を登ったらこの家が出てきてちょっと驚いた…立派だし、藤の城みたいで…脱サラした夫婦とか余生を楽しむお年寄りが住んでそうで、店には見えなかったからさ…」 ふっと吹き出した彼につられて僕も笑ってしまうと、僕の脇にいたピースが目を覚ました。そして、狭いそこで器用にのびをした猫は、床に下りて店に入っていった。 「ピースはマイペースだね」 《たぶん、ご飯食べにいった》 「…僕は、君の店を見つけられて本当によかった」 微笑んで、少し俯いた横顔を見つめて続けた。 「それまでさっぱりダメだったのに、ここに来たら嘘みたいに書けたんだ…初めて来た日は本当に嬉しかった、ついに理想の執筆場所を見つけた!って…」 『よかった』 「この店は不思議だ、とても静かで、居心地がよくて…」 『静か…?』 「うん、びっくりするくらい集中できる…」 不思議そうに小首を傾げて、《それなりにザワザワしてると思うけど》とメッセをくれた彼は、この店の魅力に気づいていないみたいだった。 「だけど、僕にはぴったりのオアシス」 《そうなら嬉しい》 照れ笑いを誤魔化すように、彼はマグに口をつけた。 「常連のお客さんも、ここの静けさを好んで来てる人達ばかりだと思ってた」 《馴染みの人達ばかり》とくれた彼は、そうかもしれないと言うようにクスリと目を緩めた。 「…ゆったりした時間もとても気持ちがいいし、書いてるとあっという間だけどーーー」 《それは田舎だから》 「うまく言えないけど、ちょっと違うんだ…」 『…違う?』 「うん、ロンドンのいろんなカフェを知ってるし、この街のカフェもいくつか行ったけど、貴方の店だけ魔法がかかってるみたいで…」 『まほう…?』 「実は、ロンドンに帰ったらさっぱり書けなかったんだ、ここであれだけ書けてたのに…」 《嘘みたい》 「だから、また来た」 『…』 「ここじゃないとできないって言ったのは、そういうこと」 『……』 「貴方の店じゃないと、だめなんだ」 もぐもぐしていたビスケットを飲み込んで、《責任重大だ》とくれた彼は、いたずらっぽい苦笑いを浮かべた。 ふとした時に、彼が見せてくれる優しい愛嬌が好きだと思う。 「じゃ、そろそろ帰るよ…さすがに長居をしすぎた」 時計を見ると19時を過ぎていて、西の空の低い所が茜に染まり始めていた。 多めに見積もった紙幣をテーブルに置いて、立ち上がると、彼は『いつでもお待ちしてます』と笑った。 店を出てしばらくすると、《ちゃんと休んで、おやすみなさい》とメッセが届いた。

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