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そして、土曜日。
昼間は閉店まで『HILLOCK』で過ごし、待ち合わせの少し前、指定のパブ『ホワイト・ホース』に行った。ここは、店主の彼との会話に出てきた刑事ドラマ『モース』でよく使われたパブで、前回の滞在中に一度行っていた。
パブはオックスフォードの中心地にあり、向かいにはシェルドニアン・シアターや科学史博物館がある。店の前の立ち飲み客に紛れて久しぶりの街の空気を吸っていると、約束の19時になる頃、人混みの向こうから早足でやってくる彼の姿が見えた。そして、僕に気づいた顔がぱっと晴れたのを見た時、少しだけ安堵できた。
夜の始め。多くの観光客で賑わう店内は、ほぼ満席だった。
彼はビターエールを、僕はこの店でしか飲めないエールをカウンターで飲みながら、フードを待っている間にテーブルが空いて、運よく座ることができた。
対面に掛けた彼は、さっそく《実はここは、たまに行くパブじゃない》とメッセをくれて、気まずそうに笑った。
慣れない様子でパブに入り、何かソワソワとしている彼を見ればそうだろうとわかったが、何か意図があるんだろうと思っていた。
「全然構わないよ」
《ここは、『モース』でお馴染みのパブ》
「うん、前回の観光中に一度来たよ」
《なら別の所にすればよかった》
「もしかして、サプライズのつもりだった…?」
『そんなところ』と、相変わらず苦笑いのままの彼に、笑ってほしかった。
「一人で来るより二人のほうがいいし…これ、おすすめのフィッシャーマンズ・パイ、美味(うま)いよ」
《あなたのほうがよく知ってるかも》
「そうかも」
突き合わせた顔でそれぞれ吹き出すと、ようやく落ち着いたのか、彼はパイに手をつけた。
しばらく、パイとフィッシュ&チップスを思い思いにつついた後で、エールを半分飲んだ彼は、思い切ったようにスマホを取った。そして、《本当は、あまりこういう所が得意じゃない》と教えてくれると、すまなそうに笑った。
「…うん、無理してほしくないから、帰ろう?」
『違う、そうじゃなくて!』
「?」
慌てて、《飲みたいし》に続けて《あなたがいれば大丈夫》とメッセをくれた彼に、僕は笑顔を返した。
それから、3時間近くも。僕らは、飲んで、話した。
先日のテラスでのように僕が喋っていることのほうが多かったが、それでも、彼は熱心に相槌を打ち、メッセで感嘆や質問や答えをたくさんくれて、何度も笑って、時々大いに脱線して、話はいつまでも続いた。
先日に引き続き、僕は、オックスフォード観光の感想から始めて、これまでの仕事や、劇作家になった経緯や、書いた本が売れなかったことや、家族のことなんかを話した。そして彼は、ピースのことや、『HILLOCK』の日替わりメニューのこだわりや、今はスープ作りに凝っていることや、藤やガーデンのメンテナンスが大変だとか、休日は昼まで寝ていて、家事をしてサッカー観てたら終わってしまうとか、買い出しに街に出るのが楽しみなんてことを話してくれた。
終盤、話題は刑事ドラマの『モース』から互いの好きな映画や本や音楽へと広がって、大いに盛り上がっていたが、料理のラストオーダーのタイミングでお開きにすることにした。彼が、留守番のピースを心配してソワソワし始めたからだ。
パブは目抜き通りに面していて、キャブをすぐに拾えた。
飲むよりも話し込んでいた僕らはほろ酔いで、キャブに乗り込んでも、まだまだ飲んでいたかった。そんな少し口惜しい思いを、彼も抱えていたと思う。
《とても楽しかった》とメッセが来て、横を見ると、スマホを覗く赤ら顔が照らされていた。
それが酔いのせいでも、とろんと細めた目は満足そうで、誘ってよかったと思う。
パブにいる間、彼と僕は、まるで“パブの一部”だったように思う。つまり、僕らのテーブルだけがとても静かで、酒場の熱気と喧騒の中、無人島のようにひっそりとしていた。誰の目にも入らず、気にも留められない壁の絵や置き物同然になってしまえば、僕らはただ、ふたりのお喋りに没頭できた。
そして、彼がひとりでパブに行ったらと考えた時、彼の静寂を誰かが共有していなければ、彼を取り囲む喧騒はうるさいだけだろう。そう思うと、彼の《こういう所が得意じゃない》がわかる気がした。
と言っても、それは勝手な憶測にすぎず、彼の《得意じゃない》をわざわざ詮索しなかったのは、目と鼻の先で、僕の目を見つめて、たくさん笑って、楽しそうにスマホをなぞる彼から、少しだって意識をそらしたくなかったからだ。
「普段パブには、一人で行くの…?」
《一人じゃ行かない、もっぱら家飲み》
「…店のバーの?」
《そう、あれは僕専用》と笑った彼は、《パブに行くなら友達と、たまにだけど》と続けた。
「そっか」
《手話する友達》
「…僕も手話、覚えたほうがいいな」
暗闇でふっと笑った彼は《いらない》と言った。
「また、飲みに誘っても…?」
《もちろん》
《次は、トールキンが通ってたパブに》
「いいね、そこは行ってない」
キャブが『HILLOCK』に着くと、暗がりで『ありがとう』と呟いた彼は、『おやすみなさい』と笑って、車を降りていった。
それから。
宿に戻り、ベッドで眠りを待ちながら、パブでの会話や別れ際の彼を思い出していた時だ。
僕は、いつからか、彼の言葉を“こんな声だろう”と勝手に思い描いている自分に気がついた。
それは、こうだと思いたい理想や、どこかで聞いたような美声ではなく、柔らかくて、優しく、明るく、愛らしく、温かく、芯が強く、たくましく、寂しい、そんな色とりどりの音を混ぜ合わせた、虹みたいな声だった。
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