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それから約2時間かけて、ようやく締めの目処がついて仕事を切り上げると、22時になろうとしていた。 「…ありがとう、明日にはなんとか完成させられるところまで書けたよ」 『そう』と本を閉じた彼は、少し眠そうな目を瞬いて笑った。 僕がPCに向かっている間、彼は、お茶をくれた時以外は、膝で丸くなったピースを撫でながら本を読んでいた。 「遅くまで付き合わせて本当にごめん…帰るよ」 荷物をまとめる腕を叩かれて、見ると、渋い顔の彼が焦ってスマホを開いた。 《こんな雨の中、帰せない》 外はようやく風が収まってきていたが、大粒の雨が変わらず降り続いていた。 「たぶん、平気だよ」 《暗くて道が見えない、危ない》 《車で送ってもいいけど、ちょっと怖いし》 《だから、泊まってって》 道が見えないと言われた時点で諦めたが、一生懸命スマホをタップしている彼は、僕を説得しようと必死に見えた。 「わかった、何から何までありがとう、雑魚寝でいいよ」 そう言うと、安堵したらしい彼は『飲もう』とバーカウンターを指差して笑った。 「いいかな?」 先立ってバーの中に入り、彼をカウンターへと促すと、彼は楽しそうにスツールに掛けた。 ここにはパブのようなビールサーバーはないが、瓶や缶の酒とリキュールがいくつか揃えてある。 「いらっしゃいませ、ご注文は?」 バーテンを真似てみた僕に『ビターを』とクスクスした彼は、缶を開ける僕の手元をニコニコ覗いた。 ビターエールを注いだグラスを彼に出して、僕はスコッチをもらい、彼の隣に掛けると、入れ替わりにピースがバーの奥へ入っていった。 少しの間、酒を飲みながら、ピースがご飯をかりかり食べる音を聞いていた。 「…君はいつも、ここで一人で飲んでるんだ」 ゆっくりスマホを持ち上げた彼が横目に見えて、彼の静寂を待った。 《一人じゃない、ピースと》 「…うん」 《ここだったり、上だったり》 「そう」 『…』 「君は、一人が…好き?」 彼は、ふっと小さく笑った。 《もしかして》 《寂しいって言いたい?》と言われて、ドキッとした。 僕だって一人飲みはよくするし、それを寂しいとは思わない。それなのに、事実、彼は寂しくないのだろうかと思ってしまう心の底を見透かされていた。 「…そんなことは、ない?」 《一人は楽》 《寂しくないって言ったら嘘になるけど》 「……」 《人がたくさんいて、ワイワイしてる所のほうが寂しい》 「…」 《周りとの会話にうまく馴染めないし》 「こうして…スマホ使っても?」 《そうじゃなくて》 《なんていうか》 「…?」 《みんなのペースは、僕には早すぎるから》 「………」 《ここは、祖父母の家だった》 《子供の頃よく遊びに来た、大好きだった》 「…それで、カフェを継いだの?」 彼は、『ううん』と首を横に振った。 カウンターに飛び乗ったピースが、彼の向こう側で丸くなった。 『乗っちゃだめ』と言いながら、ピースの背を撫でて、彼は静かに続けた。 《店は僕が始めた》 「そうなんだ…なんで『HILLOCK』なの?」 《昔から、ここはHILLOCK※って呼ばれてたみたい》(※小さい丘) 《祖父母が住むもっともっと前から》 《だから僕も、ここをそう呼んでた》 「なるほど」 《実は》 「?」 《僕もロンドンにいたんだ、大学で》 「…そうだったんだ」 《でも、ロンドンも僕には早かったから》 《こっちに戻って、ここを始めた》 「…」 《最初はしんどかったけど》 《常連さんが熱心に来てくれるようになったし》 《あなたみたいに》 「…」 《ピースはある日突然現れて、うちの子になった》 頭を優しく掻かれたピースは、小さく喉を鳴らした。 《だから寂しくない》 「…ごめん、余計なお世話だった」 『全然』と穏やかに微笑(わら)って、彼は酒を飲み干した。 《心配してくれるなんて嬉しい》 「そりゃ、気になるよ…おかわり?」 『お願いします』 バーで新しいグラスを作ってカウンターに戻るまで、ニコニコと僕を眺める彼が、いつもこんなふうに側にいてくれたらいいのにと思う。 「こんなこと聞くのも、今更だけど…」 『?』 「…どうして、僕にこんなに話したり、付き合ってくれるの?」 意外だったのか、目を丸くした彼のメッセを待たずに言った。 「その、実は、黒髪のバイトの子に聞いたんだ…君は普段、客とそんな関わらないし、引っ込み思案なところがあるって…僕からしたら、君はそんな人には思えないから…」 《彼女はラナ》 「ラナね」 《彼女は正しい》 クスクスしながら、彼はスマホをなぞった。 《実際、人付き合いが好きじゃない》 《そんなに》 「…」 《でも、すごく不思議なんだ》 《あなたと話してると》 《本当に喋ってるような気になれて》 「…うん」 《変かな?》とはにかんだ彼が、好きだった。 「僕も…」 『?』 「君の声が“聞こえてる”」 彼は、怪訝な顔で僕を見つめた。 「変だと思う?」 『すごく変』 「いい声だよ」 『ははっ』と楽しそうに笑った彼は、エールを大きく飲んで、笑顔を消した。 『それで、あなたは…』 《仕事が済んだら、ロンドンに帰る?》 そう言われた時、はっとした。 仕事を終えることが最優先で、今の今までその先のことが頭から抜け落ちていた僕は、ここを離れることに現実味が感じられなかった。 スケジュールを確認すると、月曜の午後にはロンドンで舞台の顔合わせが予定されていた。 「…あ、ああ、うん」 《土曜?日曜?》 「そうだな、日曜に帰ろうと思う…月曜には舞台の顔合わせがあるから…」 『そうなんだ』 《先のことは決まってる?》 「舞台の?」 『そう』 「うん、これから1.5ヶ月稽古とリハで、2ヶ月後には上演が始まる」 《すぐだね》 「あっという間だよ」 《忙しそう》 「そうだね…これからは書き仕事よりも、やんなきゃいけないことがいろいろ」 《上演はどれくらい?》 「今のところ2ヶ月、ヒットすれば延長」 『そう』 《ヒットしそう?》 「さあ、そう簡単にロングランしないよ」 『…』 《寂しくなる》 「また、来るよ…」 《いつかはわからない》 「…あぁ」 『…』 「また、思ってたより早く」 小さく笑った彼が、切なかった。 「ねぇ、明後日、また飲みに行くのはどう…?」 『…いいよ』 「車があるよね?なんなら買い出しを手伝うよ」 『だめ』 《お客さんにそんなことさせられない》 肩を揺らして笑い飛ばした彼を見た時だ。 ふと思いついた僕は、軽い気持ちで言っていた。 「じゃあ…日曜、どっかに遊びに行かない…?」 彼は、『遊び?』とぽかんとした。 「街に飲みに行くよりさ、気楽じゃない?」 《日曜、帰るんでしょ?》 「余裕だよ、夜に帰ればいいし」 《遊びって?》 「あー…映画とか舞台を観に行ってもいいし、美術館とか博物館に行ってもいいし…どこかの緑地か、ちょっと離れた所にドライブしてピクニックしてもいいしーーー」 『ピクニック!』と目を輝かせた彼は、放り出しそうになったスマホを慌ててタップした。 《ピクニックがいい》 《ランチ用意する、任せて》 「本当?ありがとう」 《酒も持って》 「飲酒運転はまずいよ」 『じゃあ』 《帰ってきたらここで飲もう》 《その後、駅まで送る》 「だからそれはまずいって」 『決まりだ』 赤らんだ頬でニコニコ笑った彼は、待ち切れないというようにグラスを空にした。 日付が変わる前にお開きにした僕らは、彼の住まいの2階に上がった。 2階は、広々として気持ちがいいリビングと、部屋が3つ。リビングの大きな本棚には、本がぎっしり並んでいる。こちらもリフォームしたのか、モダンなキッチンとダイニングにこだわりが見える。カウンターキッチンに並んだ調理器具はきちんと整頓されていて、彼の人柄が伺えた。 《ゲストルームはなくて》と申し訳なさそうにしながら、彼はリビングのソファに布団を用意してくれた。それから、バスルームとトイレを教えてくれると、《何かあったら起こして》『おやすみ』と自室に入った。 そして僕は、自分で言っておきながら、ピクニックなんて夢みたいだと思いながら目を閉じると、心地いい酔いと疲れのせいですぐに眠ってしまった。

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