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バイベリーは、小さな宝石箱みたいな村だった。 緑に囲まれた中世の建造物に、クリーム色の石造りの家並みと花で溢れたガーデン、村の端を流れる川にさまざまな野鳥が集う眺めは、彼曰く《絵本にそのまま閉じ込めてしまいたいほど愛らしい》。 1時間半ほどかけて村を歩き回り、途中で名所のコテージ群や歴史的な教会を観て回った。所々に可愛らしいティーハウスが点在していて、どこかでお茶をしようと考えたが、どこも観光客が溢れていて諦めるしかなかった。やむを得ず、じゃあ外でと村唯一のホテルがある高台に登り、村を一望できる草地で休憩しようと考えたが、ここも僕らみたいな観光客があちこちで目についた。 すると、彼は案外さっぱりと《ピクニックらしいピクニックをしに行こう》と笑って、バイベリーを後にした。 そして、ドライブを再開した僕らは、来た道とは別の少し遠回りになるルートを選んだ。 * 来た道同様、森や林をいくつか抜けて、湖や沼を眺めながら、彼と僕は学生か酔っ払いみたいに歌っていた。 当初、彼と話をするつもりでドライバーになったが、ドライブの間は歌ってばかりで、ほとんど喋らなかった。それでも、歌う彼は生き生きとしていて、心底楽しそうで、結果的に僕が運転で本当によかったと思う。 40分ほど走り、大小の湖が点在するエリアを抜けて緩やかな丘にさしかかると、キラーズを歌い終えた彼が、僕の腕をタップした。『この先どう?』と示す前方には、丘の中腹から頂上にかけてなだらかな草地と小さな林があった。 丘を登りきる手前で車を停めた時、時間は15時半を過ぎていた。 すっかり腹が減っていた僕らは、木立の一番大きな木の下にピクニックシートを広げた。 『見て』と腕を引かれて丘に立つと、青空のパノラマと眼下に広がる穏やかな丘陵地帯を見渡せた。みずみずしい緑の濃淡に川や湖沼がきらきらと光る眺めは、絵に描いたように美しい。その向こうには、オックスフォードの街が小さく見えている。 「綺麗だね」 頷いた彼は、眩しそうに目を細めた。 「君の丘に似てる」 ふ、と微笑んだ彼は、何に笑ったんだろう。 「…ここ、前にも来たことあるの?」 遠くを見つめたまま、彼は『ないよ』と首を振って、『雲が出てきた』と左手を額にかざした。 朝は雲一つなかった空に、西から少しずつ雲が流れてきていた。 彼の髪が、湿度を帯びた柔らかな風にそよいでいる。 『にわか雨、来そう』 手のひらを空に向けて、少しだけ、切ないような顔で。 鮮やかな緑の丘に佇む彼は、とても、きれいだった。 「……きれいだ、すごく」 『…さっきも言った』 不思議そうに僕を仰いだ彼は、『ランチにしよう』と笑った。 ハンパー(バスケット)には、彼が用意してくれたサンドイッチとフルーツがぎっしり入っていた。チーズとピクルス、サーモンとクリームチーズ、ランチョンミート、キュウリとサワークリーム。コンビーフとチーズのグリルサンド、タルタルフライ、マスタードチキンは店では出していないが、どれもとても美味しい。 「店で出せばいいのに」と言うと、彼は《日替わりは気分次第》と笑って、スープジャーからかぼちゃのスープをくれた。スープは今日も、格別に美味(うま)い。 サンドイッチもそこそこに手土産のドーナツを開けた彼は、ぺろりと2つ食べた。 《この生ドーナツは甘すぎなくていくらでもいける》と幸せそうにボックスをこちらに差し出す彼は、おもちゃ箱の宝物を見せてくれる子供みたいだと思う。 彼が大好きと言う生ドーナツは、中はしっとりともちもちしていて、確かに美味(うま)かった。 せっかくだからワインも勧めると、彼は『ドーナツには合わない』と苦笑いして、お茶を淹れた。 《それに、一人じゃ飲みたくない》 「飲みたいから運転譲ってくれたんでしょ?」 『…そうだけど』 《あんないいワイン、ここで飲まない》 「そっか」 《あなたがまた来た時に、一緒に飲みたい》 「…うん」 もう1つ。ドーナツを食べて、ゆっくりお茶を飲んだ彼は、『よく食べた』と笑って仰向けに寝転んだ。 すっかり腹が満ちた僕も、彼の横に寝転がった。 うららかな、ピクニック日和。梢(こずえ)が風にざわざわと揺れて、踊る木漏れ日が心地よかった。 「眠くなっちゃうね」 僕の呟きに頷いた彼は、日差しを避けてこちらに顔を向けた。 「僕も寝る」 『寝ないよ』と言いながら、彼はとろんと細めた目を閉じた。 「寝ていいよ」 目を閉じたまま、彼は微笑(わら)っただけで何も言わない。 「……今日は、朝、早かった?」 『………』 「…ランチとかお茶の準備、ほんとにありがとう」 『………』 「またワインを買ってくるよ、お礼に…」 『………』 「次は別の酒がいいかな…?」 『………』 「お礼、いろいろ考えたんだけど、酒と甘い物くらいしか思いつかなくて…」 『………』 「また、君が喜んでくれそうな甘い物を探してみるよ…」 『………』 眠ってしまったのか、穏やかな表情は変わらず、静かな呼吸を繰り返すだけだった。 「…」 『………』 風に煽られた髪が、額で力なく揺れている。 「…僕は、君の静寂が好きだ」 『………』 しなやかなまつ毛が、日差しを浴びては透けて光っている。 「…君が喋ることができたら、それは素敵なことだったと思う」 『………』 綺麗な鼻梁とどこかあどけない鼻先が、真っすぐ僕を見上げている。 「…けど、君の目や、表情や、息や、仕草の全部から聞こえる声が好きだ」 『………』 微笑(わら)ったままの唇には、ドーナツシュガーがついていた。小さく開(あ)いた隙間に、白い歯列が覗いている。 「………」 声がないから、唇と歯がこんなに綺麗なのかな、と、馬鹿げたことを思う。 『………』 その横顔に射す日を遮るつもりでかざした手で、つい、そっと触れてみた頬の、思わぬ温かな弾力にぎょっとしていた。 「……っ」 『………』 体を起こして無防備な顔を覗くと、喉から心臓が飛び出てしまいそうだった。 頬から口元に。そっと、そっと撫でて、触れてみた唇が、欲しかった。 『…?』 唇を重ねる間際、ゆっくりと目を開ける彼が見えた。 『………っ』 うろたえた瞳が閉じた時、唇で聞いた吐息と唇は、僕の名前だったかもしれない。

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