17 / 32
*
バイベリーは、小さな宝石箱みたいな村だった。
緑に囲まれた中世の建造物に、クリーム色の石造りの家並みと花で溢れたガーデン、村の端を流れる川にさまざまな野鳥が集う眺めは、彼曰く《絵本にそのまま閉じ込めてしまいたいほど愛らしい》。
1時間半ほどかけて村を歩き回り、途中で名所のコテージ群や歴史的な教会を観て回った。所々に可愛らしいティーハウスが点在していて、どこかでお茶をしようと考えたが、どこも観光客が溢れていて諦めるしかなかった。やむを得ず、じゃあ外でと村唯一のホテルがある高台に登り、村を一望できる草地で休憩しようと考えたが、ここも僕らみたいな観光客があちこちで目についた。
すると、彼は案外さっぱりと《ピクニックらしいピクニックをしに行こう》と笑って、バイベリーを後にした。
そして、ドライブを再開した僕らは、来た道とは別の少し遠回りになるルートを選んだ。
*
来た道同様、森や林をいくつか抜けて、湖や沼を眺めながら、彼と僕は学生か酔っ払いみたいに歌っていた。
当初、彼と話をするつもりでドライバーになったが、ドライブの間は歌ってばかりで、ほとんど喋らなかった。それでも、歌う彼は生き生きとしていて、心底楽しそうで、結果的に僕が運転で本当によかったと思う。
40分ほど走り、大小の湖が点在するエリアを抜けて緩やかな丘にさしかかると、キラーズを歌い終えた彼が、僕の腕をタップした。『この先どう?』と示す前方には、丘の中腹から頂上にかけてなだらかな草地と小さな林があった。
丘を登りきる手前で車を停めた時、時間は15時半を過ぎていた。
すっかり腹が減っていた僕らは、木立の一番大きな木の下にピクニックシートを広げた。
『見て』と腕を引かれて丘に立つと、青空のパノラマと眼下に広がる穏やかな丘陵地帯を見渡せた。みずみずしい緑の濃淡に川や湖沼がきらきらと光る眺めは、絵に描いたように美しい。その向こうには、オックスフォードの街が小さく見えている。
「綺麗だね」
頷いた彼は、眩しそうに目を細めた。
「君の丘に似てる」
ふ、と微笑んだ彼は、何に笑ったんだろう。
「…ここ、前にも来たことあるの?」
遠くを見つめたまま、彼は『ないよ』と首を振って、『雲が出てきた』と左手を額にかざした。
朝は雲一つなかった空に、西から少しずつ雲が流れてきていた。
彼の髪が、湿度を帯びた柔らかな風にそよいでいる。
『にわか雨、来そう』
手のひらを空に向けて、少しだけ、切ないような顔で。
鮮やかな緑の丘に佇む彼は、とても、きれいだった。
「……きれいだ、すごく」
『…さっきも言った』
不思議そうに僕を仰いだ彼は、『ランチにしよう』と笑った。
ハンパー(バスケット)には、彼が用意してくれたサンドイッチとフルーツがぎっしり入っていた。チーズとピクルス、サーモンとクリームチーズ、ランチョンミート、キュウリとサワークリーム。コンビーフとチーズのグリルサンド、タルタルフライ、マスタードチキンは店では出していないが、どれもとても美味しい。
「店で出せばいいのに」と言うと、彼は《日替わりは気分次第》と笑って、スープジャーからかぼちゃのスープをくれた。スープは今日も、格別に美味(うま)い。
サンドイッチもそこそこに手土産のドーナツを開けた彼は、ぺろりと2つ食べた。
《この生ドーナツは甘すぎなくていくらでもいける》と幸せそうにボックスをこちらに差し出す彼は、おもちゃ箱の宝物を見せてくれる子供みたいだと思う。
彼が大好きと言う生ドーナツは、中はしっとりともちもちしていて、確かに美味(うま)かった。
せっかくだからワインも勧めると、彼は『ドーナツには合わない』と苦笑いして、お茶を淹れた。
《それに、一人じゃ飲みたくない》
「飲みたいから運転譲ってくれたんでしょ?」
『…そうだけど』
《あんないいワイン、ここで飲まない》
「そっか」
《あなたがまた来た時に、一緒に飲みたい》
「…うん」
もう1つ。ドーナツを食べて、ゆっくりお茶を飲んだ彼は、『よく食べた』と笑って仰向けに寝転んだ。
すっかり腹が満ちた僕も、彼の横に寝転がった。
うららかな、ピクニック日和。梢(こずえ)が風にざわざわと揺れて、踊る木漏れ日が心地よかった。
「眠くなっちゃうね」
僕の呟きに頷いた彼は、日差しを避けてこちらに顔を向けた。
「僕も寝る」
『寝ないよ』と言いながら、彼はとろんと細めた目を閉じた。
「寝ていいよ」
目を閉じたまま、彼は微笑(わら)っただけで何も言わない。
「……今日は、朝、早かった?」
『………』
「…ランチとかお茶の準備、ほんとにありがとう」
『………』
「またワインを買ってくるよ、お礼に…」
『………』
「次は別の酒がいいかな…?」
『………』
「お礼、いろいろ考えたんだけど、酒と甘い物くらいしか思いつかなくて…」
『………』
「また、君が喜んでくれそうな甘い物を探してみるよ…」
『………』
眠ってしまったのか、穏やかな表情は変わらず、静かな呼吸を繰り返すだけだった。
「…」
『………』
風に煽られた髪が、額で力なく揺れている。
「…僕は、君の静寂が好きだ」
『………』
しなやかなまつ毛が、日差しを浴びては透けて光っている。
「…君が喋ることができたら、それは素敵なことだったと思う」
『………』
綺麗な鼻梁とどこかあどけない鼻先が、真っすぐ僕を見上げている。
「…けど、君の目や、表情や、息や、仕草の全部から聞こえる声が好きだ」
『………』
微笑(わら)ったままの唇には、ドーナツシュガーがついていた。小さく開(あ)いた隙間に、白い歯列が覗いている。
「………」
声がないから、唇と歯がこんなに綺麗なのかな、と、馬鹿げたことを思う。
『………』
その横顔に射す日を遮るつもりでかざした手で、つい、そっと触れてみた頬の、思わぬ温かな弾力にぎょっとしていた。
「……っ」
『………』
体を起こして無防備な顔を覗くと、喉から心臓が飛び出てしまいそうだった。
頬から口元に。そっと、そっと撫でて、触れてみた唇が、欲しかった。
『…?』
唇を重ねる間際、ゆっくりと目を開ける彼が見えた。
『………っ』
うろたえた瞳が閉じた時、唇で聞いた吐息と唇は、僕の名前だったかもしれない。
ともだちにシェアしよう!

