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そして、僕の手掛けた芝居の上演が目前に迫った7月の上旬。 幕開き前日の、火曜の夜。 ウィル恋しさと、このままではいけない、どうにかしなければという焦燥がピークに達していた僕は、いつもはまずSMSで呼びかけているが、この日はビデオ通話を彼にかけた。 3コールで出た彼は、ディスプレイの中でニコリと笑ってくれた。 時間は23時を過ぎていて、彼はもう、ベッドの中にいた。 「…起きてた?遅くにごめん」 『平気』 軽く首を振って、彼は、読んでいた本を脇に置いた。 「もしかして、それ、僕の本…?」 『そう』と笑って、僕の3年前の著書を見せてくれた彼に、甘酸っぱいものがこみ上げる。 先日、ようやく僕の本を全部揃えて箱に詰めて送ったばかりだったが、さっそく読んでくれていて嬉しい。 「もう読んでくれてるんだ」 頷いて、眠そうな顔で微笑んだウィルは、ディスプレイ越しでもきれいだった。 「…どう?」 『ちょっと待って』と体を起こした彼は、画面から消えた。 一度しかそこで寝ていなくても、ディスプレイに見えているベッドまで、恋しい。 少ししてノートとペンを持って戻った彼は、ベッドに掛けて腿の上でノートに書いた。 こうして、最後に彼と筆談で話したのは、ピクニック前日の土曜だっただろうか。今となっては、随分懐かしく思える。 『見える?』とノートの角度を気にして、《それなりにおもしろい》と見せてくれた彼は、続けて《主人公の友人に感情移入しちゃう》と書いた。 「それなりでよかった」 ふっと笑ってしまうと、彼は慌てて書いた。 《まだ全部読みきってないし》 「うん、大丈夫、正直な感想ありがとう」 《続き、楽しみ》 「読み終わったら、店で売る?」 目を丸くして、《そんなことしない》とノートを突き出した彼を、今すぐ抱き締められないのがもどかしい。 「…それで、今日は、何してたの?」 『いつもと同じ』と軽く肩をすくめたウィルは、《きみは?仕事?》と書いて、続けて《聞かなくてもそうだね》と苦笑した。 「そう、大詰めで…さっきまで飲んでた」 『大変だ』 「付き合いがいろいろ」 《僕も、ちょっと飲んだ》 《あと、ピースがへそを曲げて出てこない》 普段なら、ピースはだいたい彼の近くで体を丸めて寝ていた。 「なんか、あった…?」 《特に思い当たらない》 「ねぇ…」 『?』 「…明日、上演が始まるんだ」 『知ってる』と言って、《ついにだね、成功を願ってる》と笑顔を見せてくれた彼に、胸が詰まった。 「…うん、ありがとう」 《忙しいんだから、わざわざ連絡してくれなくてもいい》 ちゃんと見ていなければ見逃してしまうほどの微かなため息をついた彼が、切ない。 「そんなこと、言わないで…」 何も言わず、ノートを伏せて俯いた彼を見つめて、すがる思いで続けた。 「来週の木曜、プレス・ナイトなんだ」 『…?』 「マスコミとかメディアの招待日、メディアだけじゃなくて業界の人間や関係者を呼んで、上演後にはパーティーもある…とにかく、そういう日なんだけど…君を招待したいんだ」 『…』 「君は店があることもわかってる、それでも…」 『どうして?』とゆっくり口を動かす彼が、辛かった。 「…正直に言うよ」 『…』 「プレス・ナイトなんて、都合のいい口実…」 『…』 「僕の仕事を見せつけたいわけでも、褒めてほしいわけでもない、寝ててくれたっていい…」 『…』 「本当は、ただ、君に会いたい」 『…』 切なく笑っていただけの彼が『僕も』と呟いたのが見えて、いてもたってもいられなかった。 「君が恋しい、ウィル…」 「君が側にいないことがこんなに辛いと思わなかった」 「君の表情(かお)も、息遣いも、匂いも、温もりも、重さも、背中の痛みもまだ覚えてる」 「それなのに、君の声が聞こえない」 一瞬、頬を緩めた彼のそれは、笑みにはなりきらなかった。 「今、こうしてても…」 「それが一番キツいよ」 「君が、恋しくてたまらない」 ウィルは、おもむろにノートにペンを走らせた。 《僕も、きみが恋しい》 《片時だって、きみを想ってない時はない》 《忘れられない》 「…っ」 《それだけ、寂しくてたまらない》 「ごめん…」 思わず。ディスプレイに手を伸ばしていたが、彼には届かない。 「…仕事が言い訳にならないことくらい、わかってる」 《仕方ないって、わかってる》 「…」 ノートを下げた彼は、スマホに顔を近づけた。 『プレスの日、行くよ』 ゆっくり、はっきり。そう言ってくれた目には、涙が滲んでいるように見えた。 「…嬉しい」 そしてまた、彼はノートを覗いた。 《僕だって、きみに会いたいから》 「…待ってる」 《ほんとは、来週末くらいに観に行こうと思ってた》 「そうだったの?」 《今週末は、僕の都合が悪くて行けないから》 《そろそろ言おうと思ってた》 「…そか」 《招待、ありがとう》 「…店があるのに、無理言ってごめん」 《いいんだ、楽しみにしてる》 ノートを置いて、彼は、こちらを覗いた。 『本当に』 白い歯を見せて笑ってくれた彼は、やっぱり、涙ぐんでいた。 「…ごめん」 『…何が?』 「泣かせた」 『泣いてない』 彼は怖い顔をすると、そっぽを向いて、すんと鼻を吸った。 その時、「みゃ」とフレームインしたピースが、彼の腿に体を擦り寄せた。 「…ピース」 『どこにいたの』とピースの背を撫でた彼の柔らかな横顔が、たまらなく愛しい。 《きみの声がしたから来たのかも》 「…そっか」 《もう、寝るよ》 「ああ…遅くにごめん」 『いつもそう』 「そうだった…」 スマホの映像が大きくぶれて、落ち着くと、彼はベッドに入って布団を被っていた。 「…じゃあ、おやすみ」 口に当てた中指と人差し指でスマホの画面に触れると、彼も、指でキスをしてくれた。 「愛してる」と囁いても、彼がそこにいなければ虚しく、意味をなさない気がした。 小刻みに頷いて、『愛してる』と動いた唇を見ても、寂しさは晴れない。 『おやすみ、ノーマン』 サイドテーブルにスマホを置いて、布団を被って目を閉じた彼の肩に、ピースが丸くなって寄り添った。 そして僕は、いつものように。ウィルが眠りに落ちるまで、その、疲れと寂しさで凍りついてしまったような寝顔を、黙って見つめていた。 静かな吐息が、柔らかな寝息に変わった頃。 「おやすみ、ウィル…ピース」 しっぽの先をぱたぱた動かしたピースを確認して、通話を切った。

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