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Ch.12

そして、無事に初日が開幕した公演は、約1週間のプレビューを終え、プレス・ナイトを迎えた。 木曜の今日と明日、ウィルは店を休みにして、今日はペットホテルにピースを預けた後でロンドンに来ることになっている。彼の電車のチケットやホテルは、全て僕が手配していた。 夕方、開演の30分前。 劇場に現れたウィルは、僕を見つけるとぱっと顔を輝かせた。 「来てくれてありがとう、本当に…」 『遅くなってごめん』 「全然遅くない、大丈夫」 飛びついてしまいたい気持ちを抑えて迎えた彼は、ネイビーのジャケットとライトブルーのシャツにベージュのパンツを合わせた爽やかなスマートカジュアルの装いで、想い人という贔屓目を抜きにしても、とても素敵だった。 「本当に、とても素敵だ…」 『ありがとう』とはにかんだ彼は、『待って』とスマホを取り出して、僕もスマホを開いた。 《見違えた?》 「見違えてない、君は元から素敵だから」 『なら』 《Tシャツとジーンズで来ればよかった》と、いたずらっぽく笑う彼を目の当たりにするだけで、胸が詰まる。 目の前にいるのは、日々、寂しく萎(しお)れていく花のような彼とは別人の、あの、笑顔が素敵な、緑の丘が似合う人だった。 「実は、別にドレスコードはないんだ、それなりのカッコしてる人もいるけど」 『ほんと?』と素直に目を丸めた彼を見ているだけで、オックスフォードでの日々を思い出して、胸が疼く。 「うん」 『なんだ』 《せっかく気取ったのに》 「ますます惚れた」 その腰に手を回すと、彼は『あっ』と頬を赤くした。 そして、あたふたとスマホを打つ彼を見るだけで、愛おしさが溢れる。 《きみの顔に泥は塗れないから》 「ハグして、いい…?」 僕を見つめる困惑の目が、それは聞くことなのかと言っていた。 ハグというより情熱的に抱き締めた彼は、僕の腕の中で、ゆっくり、大きく、震えるため息をついた。 「…会いたかった」 彼を胸いっぱいに嗅ぐだけで、体が熱くなる。 『…』 頷いて、強く僕を抱き返した彼は、『僕も』と言ったと思う。 「…チェックインはした?」 彼の宿は、劇場の斜め向かいのホテルで取っていた。今夜のパーティーは、そこのホールで行われる。 『うん』 「問題なかった?」 『何も』と首を振った彼は、体を離してスマホを覗いた。 《あんな豪華な部屋、初めて》 『ありがとう』 「部屋どこ?」 《603》 「このまま君の部屋に行かない?」 僕の言葉に呆れ返ったらしい彼は《君ってフマジメなの?》と送信前のテキストを突きつけた。 「君のほうが大事」 『…』 一瞬、目を細めた彼は、《君ってフマジメなの?》を送信した後、《きみの芝居を観たい》と笑った。 「…ありがとう、ロンドンは久しぶり?」 『かなり』 「なら、いい思い出になるといい…そろそろ行こっか」 ロビーの奥へとウィルの背を促すと、彼は、眩しい笑顔を見せた。 『楽しみ』と胸に手を当てて、『シャンパンが飲みたい』と言う声は、キラキラと弾んでいた。 * 上演中、僕の意識はほとんどウィルに向いていたが、彼はちゃんと、むしろ熱心に舞台を観ていた。 第一幕の間、僕らは手を繋いで、僕が彼の肩に頭を乗せたり、時々彼が『あの役者いいね』みたいな感想を僕に耳打ちして、それに僕はキスを返したりしながら観ていた。 幕間を挟んで第二幕になると、夢中になった彼は真剣に舞台に見入っていて、彼の邪魔をするのは遠慮した。 終演後、ウィルは、『すごく面白かった』と僕の手を握って伝えてくれた。お世辞ではないらしく、『パンフはどこ?』とウロウロして、僕があげるつもりで手に入れる前に、手売りの劇場スタッフからパンフレットを入手した。そして、僕に『サインくれる?』と突き出して、「ペンがない」と慌てた僕に、すかざす筆談用に持ち歩いているペンを取り出した彼は、すっかり興奮していた。 「サインとか、演者にもらったらいいよ」 今回の主演は、TVでも活躍し始めたいずれはブレイク確実の俳優を起用している。彼の演技は間違いなく光っていて、演目がよく見えるのは彼の演技によるところが大きい。 それでも、『僕は、きみのがほしい』と唇を尖らせたウィルにサインをすると、彼は『ありがとう』とニコニコして、それを懐に丁寧にしまった。 実際、彼に喜んでもらうために書いた話じゃなかったが、明日以降、各メディアに出るどんなレビューと評価よりも、仮にそれが絶賛の嵐だったとしても、ウィルがそれだけ楽しんでくれたというだけで、十分に満たされている僕がいた。

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