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テーブルを2つどけた床に畳んだ看板を置いて、僕らは、それぞれの前に腰を下ろした。
ウィルがくれたタオルで看板を消そうとすると、彼は僕の手を止めた。そして、雨に濡れた僕の髪や顔や服を、そのタオルで拭った。
「ありがとう」
それから、タオルで黒板の文字を消した後、ウィルは、スマホを出して『これを描く』と看板の完成時の写真を見せてくれた。
周りの線を描いて、飾りを描いて、メニューを書いていく間、僕の側で、ウィルも、黙々とチョークで描いていた。
余白やバランスを見誤ったり、色を凝ってみたりしながら何度も描き直していると、思ったより時間がかかった。
僕より先に仕上げたウィルは、厨房でお茶を淹れて戻ると、側に腰を下ろして僕の看板を覗いた。そして、チョークを取って、まだ描いていないスペースにこう書いた。
《きみの字、意外とかわいい》
そう言われて、これまで、僕の字を見せる機会がなかったことに気がついた。
「…あぁ、そうかな…」
顔を向けると、ウィルは気まずそうに目を伏せた。
『…』
「…ラブレターのひとつくらい…書けばよかった」
『…』
「愛してる」
言わなければいけないことは山ほどあったのに、苦しいような横顔を見てしまえば、これしかなかった。
『っ…』
看板を見つめたまま、凍りついてしまったように。彼は、微動だにしなかった。
「君を愛してる、心から…」
『…っ』
突然。顔を上げたウィルは、僕を睨みつけて、ゆっくり口を開いた。
『…愛してる』
そう、はっきりと、肩を震わせて。
『愛してる』
もう一度、叫ぶように言った彼は、彼が描いた看板をタオルでぐしゃぐしゃと消した。
「!?」
『愛してる…』
そう絞り出した彼は、震える手でチョークを取って、黒板いっぱいに殴り書いた。
《 っ て 、 言 え た ら い い の に 》
床に手をついて、大きく項垂(うなだ)れたその体は、小さく萎(しぼ)んでしまったように見えた。
「………」
ちゃんと、聞こえてる。そう伝える代わりに、ウィルに腕を伸ばした。
愛する人を抱き寄せる間際、僕を仰いだその目は、涙で濡れていた。
『…っ』
「…せっかく、綺麗に描いてたのに」
僕に倒れ込んだ体を抱いて、左の肩に埋もれた頭を撫でた。
胸いっぱいに嗅いだ匂いと、預けられた温もりの愛おしさに、息が詰まる。
『…っ』
「…僕が、描き直すよ」
ひっそりと泣く背中を擦(さす)りながら、彼の迸る感情(おもい)を聞いていた。
『…っ』
「新しい看板、買おうよ…」
『…っ』
「チョークじゃなくて、ペンで描くタイプの…」
『…っ』
「雨で消えづらいのを…」
『…っ』
「買い出し、行くとこだったよね…?」
『…っ』
「…一緒に、買いに行こう」
大きく頭(かぶり)を振った彼は、僕を抱く腕に力を込めた。
『…っ』
「…そう」
その時。「にゃ」と声がして、どこからか現れたピースが、ウィルの腰に体を擦り付けた。
「…ピースが心配してる」
『……っ』
顔を起こしたウィルは、目を真っ赤にして泣いていた。
「…」
もちろん、泣いてほしくなんかなかった。それでも、言葉にできない分、涙にするしかないのかもしれない。そう思うと、彼をまた、抱き寄せることしかできない。
『…っ』
そしてそのまま、ウィルが泣きやむまで。ずっと、彼を抱き締めていた。
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