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しばらくの間、俺とネロは、互いに視線を交えたまま黙っていた。 シーザーの救命措置を取らなかったのは、それを目にした時点で手の施しようがないことがわかったからだが、そもそも救命は俺の仕事じゃない。 雇い主の首から吹き出す血が徐々に弱まり、線状の傷からゆるゆると溢れるだけになって、やがて微量になった頃、ネロは俺を制する手を静かに下ろした。 「ちょっと待って」 まるで友人にでも呼びかけるような声をよこしたネロは、シーザーからゆっくり腰を上げた。 白い尻から萎んだペニスが抜けて、男が小さく甘い息を吐(つ)いた時、首がぷつりと血を吹いて、雇い主が事切れたらしいことがわかった。 ぱっくりと線状に深く裂けた首は、恐らくピアノ線のようなワイヤーで切られたのだろう。ドラッグで飛んでいても、致命傷を与えられるまでは抵抗ができたはずで、それならば多少の時間がかかる。しかし、ほんの数分でなされた仕事は相当の力で一気に行われたに違いなく、プロ並みの早業をやってのけた男に全く油断はできない。 雇い主から下りたネロは、血濡れた体をこちらに向けてベッドの端に腰を掛けた。 「お待たせアーサー、ありがとう」 両手を上げて敵意はないと示す男のペニスは、依然勃起している。そして、「撃たないでいてくれて嬉しい」と清々しいほど屈託のない笑みを浮かべている彼は、狂人でなければ俺の同類だった。 これまで、ネロと話したことが一度もなかった俺は、異様に馴れ馴れしい彼に僅かに苛立ちながら、同時に的中した不審に苦いものを覚えていた。 これまで、シーザーの目に余るネロの寵愛には俺ですらしばしば疑問を感じていたが、それ以上に、難なくこの組織に潜り込み、そう時間をかけずに腹心以上に雇い主に取り入り、幹部を差し置いて平然とのさばるようになったこの男に、幾度となく疑念を抱いていたのは事実だった。 「質問に答えろ、どういうつもりだ?」 「話したいのは山々だけど、まずはお互い手を下ろさない…?疲れちゃうし、銃を向けられてると落ち着かないーーー」 「信用できない」 「安心してよ、アンタを殺る理由なんてないんだから」 一蹴した俺に構わず、ゆっくり右手を枕へと伸ばすネロに向けた銃を握る手に力を込めた。こちらには、雇い主を消されたという彼を殺(や)る真っ当な理由がある。しかし、雇い主が消えれば困るのは情夫も同様で、その理由(わけ)を知りたい好奇心が引き金を引く指を止(とど)めた。 「アンタも知っての通り、この部屋に銃はこれしかない」 枕の下から銃を抜き出したネロは、それを俺の足元に放った。 「どう殺った?」 「コレ」 死体を探ったネロは、血塗(まみ)れのワイヤーもこちらに放ると、「これでいいでしょ」と両手を下ろしたが、俺は銃を下ろさなかった。 この部屋に凶器は持ち込めない。ワイヤーは、くるくると跳ねる巻き髪の中にでも忍ばせていたのだろう。今の彼は左耳のダイヤのピアスしか身につけていない全裸だが、油断はならない。 「それで、どういうつもりだ?」 「“ブラック・ウルフ”を乗っ取る」 咄嗟に口をつきかけた「馬鹿げてる」を飲み込んだのは、この不愉快にニヤつく男が本気だとわかったからだ。 「いつから考えてた?」 「もちろん、ハナから」 そんなことは、聞くまでもなかった。 「どうして今?」 「組織のビジネスをイロイロ調べたりして、シーザーが生きてないと都合悪いこともたっくさんあってさ…口座がどうとか株とか投資案件とか資産とかの把握から初めて、そういうのがようやく全部済んだから……それでさっき、アンタが出てってくれて、チャンス到来」 シーザーはネロを溺愛していたが、情事を終えた後、ネロも俺も追い出して一人で寝ていたのは、間違っても寝首を掻かれなくなかったのだろう。つまり、情事中に俺が離れる数分しかシーザーを殺る機会はなく、今夜、俺はここぞと出し抜かれたのだ。 「シーザーとか名乗っちゃってたのがすごいよね、ダサ」 クスクスと肩を揺らした情夫は枕元のタバコを取り上げると、美味そうに一服して大きく煙を吐いた。 「アンタのことも調べたよ」 わざとらしく組んだ脚の間で、縮み始めたペニスがくたりと倒れた。 「通称アーサー、本名はアレック・なんちゃら…忘れた、英国陸軍中佐、特殊空挺部隊で活躍し5度の叙勲、退役後は要人警護に転身、ランクはトリプルAで名を馳せてたけど、5年前の任務失敗を機に行方をくらました。今はバカ高い雇用料で警護や殺人なんかを請け負う裏社会の便利屋稼業をやってる…ダーク・ボンドって感じ?ギリシャとイタリアで仕事して、その間に一時的にアメリカの傭兵してたっけ?それでここ3年はシーザーに飼われてる…じゃない、飼われてた、か…こんなとこでしょ?」 間違いがないからこそ、男に対する不審はますます高まった。俺が裏に入ってからの経歴は、どこにも記録されていないはずだった。 「それで今夜、アンタの顧客はボクが殺った、世界最高峰のボディガードの不名誉だ…2度目の汚点?」 ニヤつく顔はただ楽しげなだけで、俺を挑発したいようには見えなかった。 「…お前は何者だ?」 「ボクはネローーー」 「そうじゃない」 「ちょっとだけ野心が強い、ただのガキ?」 「…」 「面倒が嫌いでさ、最短ルートを考えたらコレだった…殺ったモン勝ちの世界じゃん?」 「勝ち目はーーー」 「なきゃしない」 「これからが面倒だ」 タバコの燃えさしを床に放ったネロは、思い出したように顔の血を手近なシーツで拭った。そして脚を組み変えると、他愛ない雑談でもするようにのんびり続けた。 「そこなんだよね、アーサー」 「気安く呼ぶなーーー」 「相談なんだけど、いや相談じゃない、アンタは乗る、これからボクはボクの帝国を作るから、アンタに手伝ってほしいーーー」 「断る」 「どうして?ボクが次の顧客になるだけの話だ」 「お前が気に食わない」 「組んでくれるなら、こうしよ」 新しいタバコを咥えたネロは、忙しなくふかしながらペラペラと続けた。 「そもそもアンタは、ボクと“ブラック・ウルフ”を乗っ取るつもりだった…で、シーザーを殺ったのはアンタってことにすれば、不名誉どころかハクもつく」 「必要ないーーー」 「アンタは金のためだけにボディガードをしてる、セイギとかモラルとか上っ面の綺麗事にはこれぽっちも興味がない…でしょ?」 「…」 「この1年、ボクがベッドでどんな目に遭ってても、アンタは眉一つ動かさないでボクを見てた…そういう愚直に仕事をこなすサイコは大好きだ」 乾きかけた血がまだらにこびりついた顔は醜悪で、どっちがサイコだと呆れた。それでも、純粋な狂気を宿してキラキラと光る瞳は、不思議と綺麗に見えた。 「…俺は高いーーー」 「シーザーの金をまるごといただくし、これまで以上に払う、2割増しで」 「5」 「2.5」 「3だ」 「がめついな、気に入った、それでいいよ」 弾けるように笑ったネロは、大きく吸いきったタバコをまた床に放った。そして煙を吐ききり、子供みたいにベッドから跳ねて立ちあがると、踊るような足取りでこちらに近づいた。 「止まれ」 俺の銃に手をかけて、銃口を自らの胸に押し当てた彼は、うっとりと細めた目で俺を見上げた。 「…ボクはアンタの顧客だ、もう下ろしてよ」 たった今、この男の目をまともに覗いた俺は、蕩けるような光を帯びた濃緑の瞳に薄ら寒いものを覚えていた。 コイツはこれまでに知るどんな凶悪な人間よりもヤバい。頭の隅でアラートが鳴っていても、これまでに見たどんな金銀財宝よりも惹きつけられる、強烈な引力を持っていた。 「半額を前金制だーーー」 「今は夜中だ、明日の朝イチでやるよ!」 「今だ」 「せっかちだな」 人の皮を被った天使と悪魔の落し子みたいな顔から一転、うんざりと顔を歪めたネロは、「わかったよ」と体を翻して寝室のドアに向かった。 ドアを解錠してやった俺は、男の頭に銃を向けたまま、裸足でペタペタと廊下を進む男の後をシーザーの書斎へとついていった。

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