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第一章 この愛は、罪 1

 リーヴェ村は今日も穏やかだった。  草花が咲き誇り、広場には果物や野菜が色とりどりに並ぶ。  あちこちから笑い声がこぼれ、春の光に満ちていた。 「アドニス様!」  商人に声をかけられた青年――アドニスは、ふわふわと光を含んだ栗色の髪を揺らしながら、微笑んで足を止めた。  首元で、銀のチェーンがかすかに音を立てる。  涙の結晶のような青いネックレス――神の加護を宿すフェルメンが、淡く光を放ちながら揺れていた。  小柄で華奢な体つきは、遠目には子どものようにも見える。  だがその佇まいには、どこか神聖で穏やかな気配があった。  この村でただ一人、神官の位を授かった神に仕える気高き存在――。  彼には「免罪符」と呼ばれる神聖な力が宿っていた。  年にわずか六日だけ、罪を告白した者の魂を清めるという、奇跡のような力――。  広場のあちこちで、採れたての野菜や焼きたてのパンが手渡され、アドニスはその一つ一つに丁寧に頭を下げていく。  村人たちは、セレア様に供物を捧げることで、神の祝福を受け取ると信じている。  だからこそ、アドニスは――  神の声を届けてくれる人として、特別な信頼を寄せられていた。 「セレア様に、どうかお捧げください」  そう言って手を合わせる村人もいる。  受け取った食材は教会へと運ばれ、飢えた子どもたちの温かな食事となる。  孤児や貧しい者たちに惜しみなく手を差し伸べる――  そんなアドニスの姿を、村の誰もが知っていた。  すると、ひとりの少女が暗い路地を指差した。  そこには泥まみれの少年が(うずくま)っている。  アドニスは言葉をかけることなく、その子の手を取った。  教会へ連れ帰り、もらった食材でスープを作ると、少年は目を潤ませて、一口ずつ(すす)った。  ――明るい場所には、いつだって影がある。  アドニスは、今日もその影に――そっと手を伸ばすのだった。  *  そんなある日、掲示板の前に人だかりができていた。 『クルム村で修道士が強盗に襲われ死亡。犯人は逃走中』  その一文を見て、アドニスは立ち止まり、目を伏せた。  ――また、か。  修道士――神官の見習いや補佐を務める、神に仕える者たち。  その修道士が、各地で次々と狙われていた。  戦の影響で食糧は奪われ、人々の心にも余裕がなくなっている。  飢えた者は、生き延びるために罪を犯す。  例え(あや)める相手が、神に仕える者であっても――。  それが人間の真理――そう思えば、なおさら胸が痛んだ。 「なぁ……あの強盗、うちの村に近づいてないか?」  誰かがそう言うと、周囲がざわめいた。 「この前はユム村、今度はクルム……」 「修道士様ばかりを狙ってるって話よ……神官様まで狙われたら……」  誰かの言葉に、空気が一変した。  その場の視線が一斉にアドニスへと向けられる。 「もうすぐ免罪符の日が来ますし……アドニス様のために、懺悔室に鍵をつけては」 「いえ、それは……ご迷惑になるかと」  すぐにアドニスは首を振ったが、村人のひとりが叫ぶ。 「迷惑なんかじゃねぇ! いつも助けてもらってんだ、今度はこっちの番だろ!」  そのひと言に、あちこちから賛同の声が上がった。  誰かが走り去り、別の誰かが釘や金具を持ってくる。  アドニスが制止する間もなく、懺悔室の扉に人が群がった。  ぎしぎしと木材を組み付ける音。  それは、まるで守るという意志を刻むようだった。  気がつけば、扉には頑丈な鍵が取りつけられていた。  アドニスは何度も何度も頭を下げた。  けれど、その胸の奥では――小さな棘が、そっと疼いていた。  ――こんな備えが、必要になるかもしれない日が、すぐそこまで来ている。  *  免罪符まで一週間を切った頃、再び掲示が貼りだされた。 『ルータ村にて修道士が襲われ死亡。犯人は逃走中』  リーヴェ村のすぐ隣――もう、すぐそこに「死」が迫っていた。

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