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第一章 この愛は、罪 5
まだ数日しか経っていないというのに、アドニスはユリセスの姿を目で追っている自分に気づいた。
隣に立たれると胸がざわつき、ふとした仕草に顔が熱くなる。
本屋での出来事が頭から離れず、夜になると決まって思い出してしまう。
背中に触れた――ぬくもり。
くぐもった息遣い。
どこか懐かしいような、甘い香り。
――ダメだ。
そんな妄想が脳裏 に浮かぶたび、アドニスはセレア像の前に行き、祈りの言葉を唱えた。
心を鎮め、神の言葉に触れてからでないと、夜が怖くて眠れなくなっていた。
そんなある日のことだった。
二人で街に出かけていた帰り道。
一人の少女が持っていたパンを、誤って地面に落としてしまった。
泥の中に沈んだそれを見て、少女は真っ青な顔でその場にしゃがみ込み、わっと泣き出した。
服も肌も汚れていて、強いにおいが漂っている。
「近づいたら病気がうつるよ……」
「うわっ、くさ……」
周囲の人々は鼻をつまみながら少女を避け、通り過ぎていった。
誰一人、助けようとはしない中で――
「アドニス様!」
ユリセスの声が背後で響いたが、アドニスはそれを振り切って少女へ駆け寄った。
迷いなどなかった。
ただ、本能が身体を動かしていた。
「アドニス様! おやめください、感染症の危険が――」
「構いません!」
アドニスはきっぱりと告げ、膝をつくと、自分の服で少女の顔を拭った。
泥と涙と鼻水にまみれたその頬が、徐々にきれいになっていく。
「だ、だめです……服が……!」
「いいんだよ。洗えば元通りになるからね」
笑顔を浮かべてそう言うと、少女はまた泣き出した。
だがその涙は、先ほどまでの絶望のものとは違っていた。
やがて、アドニスはそっと新しいパンを手渡した。
「これからは、気をつけて帰るんだよ」
少女はぎゅっとそれを抱きしめ、何度も頷いたあと、ぺこりと頭を下げて走り去っていった。
振り返ると、ユリセスが立ち尽くしていた。
厳しい目をしていたその顔に、動揺の色が浮かんでいる。
そして次の瞬間、彼はその場で膝をついた。
「ユ……ユリセス様っ!」
「アドニス様……私は、なんと浅はかだったのでしょう……!」
彼の震える声に、アドニスは息を呑んだ。
夕暮れの橙色 の光に照らされたユリセスは、まるで彫刻像のように美しかった。
強さと忠誠を体現 したその姿が、今はただ儚げで、壊れてしまいそうに見える。
「ユリセス様、どうか顔をお上げください。皆が見ています……」
「構いません。民の痛みを見過ごした私は、騎士として失格なのです」
そう言って、ユリセスはアドニスの手をそっと取った。
見上げた眼差しには決意がこもっていた。
「私は誓います。もう二度と、目の前の人を差別しません。アドニス様――あなたに、誓います」
「あっ……」
そうして、彼はアドニスの手の甲に、そっと唇を落とした。
それはまるで、婚約の儀式のようだった。
――自分が花嫁になった。
そんな錯覚が、一瞬で心を燃え上がらせた。
「わ、わかりました! もう……帰りましょう!」
顔を真っ赤に染めて、アドニスはユリセスの手を引いた。
夕日が、二人の影を照らしていた。
静かに――長く、長く伸びていった。
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