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第一章 この愛は、罪 7

 いつものように二人で向かい合って朝ご飯を()っていた。  にんじんとじゃがいもの素朴なスープと、小さなパン。    違うのは、ユリセスとの会話がないだけだ。    昨日、山へ行ってから、二人の間に言葉がなくなった。    本当は話したい。  けれど、胸が締めつけられて、声にならない。  ――ユリセス様は昨日のことをどう思っているのだろう。  食事を終えると、ユリセスは黙って皿を洗い始めた。  カチャリと器が重なる音だけが、静まり返った空間に響いている。    ちらりと横目で見たその腕に、赤く(にじ)()り傷が見えた。  スープの皿を洗うために、無造作に(まく)られた袖の下。  昨日、自分を庇ったときのものだろう。 「ユリセス様、腕に……!」 「ご心配なく。これくらい、どうということは」  そう言って笑ったユリセスだったが、アドニスはすぐに首を横に振った。 「どうか、手当をさせてください」  真剣な目に、ユリセスは観念したようにうなずいた。  椅子に座らせ、薬を取り出すと、アドニスはその腕にそっと触れた。  白く透けるような肌に刻まれた、細くて浅い傷跡。  でも、本当に痛んだのは、その下に眠る――いくつもの古傷の方だった。 「……これも戦場でついたのですね」 「ええ。気づけば増えていました」  静かに笑うその横顔が、少しだけ遠くを見ていた。  ふと、肩口のあたりに、うっすらと赤い滲みが見えた。 「ユリセス様、背中にも……?」 「いえ、それは……」 「お願いします。診せてください」  逡巡(しゅんじゅん)ののち、ユリセスはボタンを外し、上着を滑らせた。  肩から背中にかけて、鍛え抜かれた筋肉がなめらかな曲線を描いていた。  そこに刻まれた、いくつもの痕。  古傷、焼け跡、そして昨日の新しい傷。  ――美しい。  清らかで、強くて、それでいて儚く見えた。  アドニスはそっと、薬を指に取り、傷へ塗り込んでいった。 「……アドニス様?」 「あっ……いえ、すみません、考え事をしていて」  触れているのは、ただの傷跡。  なのに、指先の感覚が、どうしようもなく胸に残る。  このまま、ずっと触れていたい――そんな思いが、心の奥から滲んできた。  そろそろ手を引こうとした、そのときだった。  ユリセスが、そっとアドニスの手を取った。 「ユ……ユリセス様……?」 「もっと傷があればよかった、と思ってしまいました」 「えっ……」 「あなたに触れてもらえる時間が、もっと長くなるなら……身体が(もろ)ければよかったのに」  くすりと笑うその声が、優しくて、熱い。    ――もっと……ユリセス様に触れてもいいの……?  アドニスは言葉を失い、ただ心臓が暴れるのを抑えるので精一杯だった。  そして、ユリセスはアドニスの手を、そっと包み込んだ。 「無垢というのは、罪になるとご存知ですか?」  指先をなぞるように撫でながら、低く甘い声で囁く。  その声は、今まで聞いたことのないほど掠れていて――。  アドニスの心臓が、暴れるように跳ね上がった。 「えっ……」 「ほら、もう――」    ふっと笑みを浮かべて、ユリセスはアドニスの手をきゅっと握った。   「……こんなに簡単に捕まえられる」 「ユ、ユリセス様……っ」  そのとき。  ドン、ドン。  扉が、無情にも音を立てた。

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