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第一章 この愛は、罪 8
「ユリセス様っ!」
切羽詰まった配下の声が、空気を切り裂く。
背筋を冷たいものが這い、思わず息を詰めた。
瞬時に、空気がぴりつくように張りつめていく。
ユリセスはすぐに身支度を整え、扉を開けた。
「ユリセス様、国王より書状が……」
差し出された封筒を受け取り、その場で封を切ると、ユリセスの指がわずかに震えた。
文を目で追うごとに、その顔が青ざめていく。
「そんな……馬鹿な……」
ユリセスの唇がかすかに震え、手の中の書状がくしゃりと音を立てた。
国に何か起きたのだと、アドニスにもすぐにわかった。
「わかった……。皆にも伝えよ」
淡々と命じると、部下は一礼をして去っていった。
「ユリセス様……」
不安そうに声をかけると、ユリセスは悲しげに笑った。
「隣のライマール国が、我が国に進軍する準備をしているそうです」
「そんなっ……!」
「大丈夫です。戦にはなりません。ライマールはずっと我が国と友好関係を築いておりましたから、すぐに和解できます」
強く言い切ったものの、ユリセスの顔色は優れないままだった。
「アドニス様……そんな顔をなさらないでください」
アドニスは自然と涙を流していた。
いつかまた戦場に戻ると覚悟していたはずなのに、胸を裂くような不安が込み上げる。
「三日後に免罪符の日が始まるというのに……まさかこんなことになるとは……」
ユリセスはそっとアドニスを抱き締めた。
「皆は今すぐ国へ帰りますが、私は明日の朝ここを去ろうと思います。ぎりぎりの時間まであなたと一緒にいたいのです」
「ユリセス様……」
「ご迷惑でなければ、今日一日私に時間をくれませんか?」
アドニスの心臓は高鳴っていた。
ユリセスに包まれながら、こくんと頷いた。
アドニスは以前と同じように、弁当とパンの準備をしてユリセスと山へ行った。
野草を集めたいのかと思っていたが、ユリセスはずっといろんな花を鑑賞していた。
そして、気になる花を見つけるとアドニスに声をかけた。
「それは……フィルネージュですね」
「……とても綺麗だ」
ぽつりと呟く度に、視線が合う。
ユリセスの眼差しは、花ではなくアドニスを見つめていた。
まるで、あなたが綺麗だと告げているようで、アドニスの心臓は落ち着くことがなかった。
しばらく歩くと、ユリセスは足を止めた。
「これは……セリシアですね」
「ええ……ユリセス様が最初に尋ねた花です」
ユリセスは花をそっと摘み取ると、アドニスに差し出した。
戸惑いながら受け取ると、彼はくすっと笑った。
「アドニス様……セリシアの意味をお忘れですか?」
「え……」
その瞳はまっすぐにアドニスを見つめていた。
まるで、花の意味そのものを、この瞬間に与えようとしているかのように――。
手の中のセリシアが、風に揺れて震える。
同じように、アドニスの心も震えた。
――僕に……愛を誓ったってこと……? な、なに考えてるの僕……そんなわけ、ないのに……。
ユリセスはふっと笑うと、すぐさま山の散策を始めた。
――どういう……意味で言ったの……? ユリセス様……。
ひとしきり散策すると、ユリセスは陽の当たる傾斜に腰を下ろした。
「お昼にしましょう。こちらに来てください。綺麗な花がたくさん咲いてますよ」
ユリセスに誘われ、素直に歩み寄る。
差し出された手を取ろうとしたその瞬間――。
「っ……!」
気づけば、力強く引き寄せられていた。
あっ、と思った時には、もうユリセスの腕の中だった。
「無垢ほど、罪なものはないと言ったでしょう?」
「え……」
「……こんなに無防備で……私が騎士である前に、一人の男だということをお忘れですか?」
ユリセスの顔が近い。
触れそうな距離で見つめられ、逃げられなかった。
このまま奪われてしまいそうだった――唇も心も。
「……そういえば、お昼にするんでしたね」
不意にユリセスが離れた。
「……あっ! そうですね……」
慌ててお昼の準備をし始めると、ユリセスはくすっと笑った。
――昨日からユリセス様の様子が変だ……。いや、意識している僕の方がおかしいのかな……。
昼を終えても、二人は山を歩き続けた。
気づけば、もう空は真っ赤に染まっていた。
「ユリセス様、そろそろ帰りましょう。日が暮れてしまいます」
「……ええ、そうですね」
ユリセスの横顔が、夕陽の中でゆらいで見えた。
こんなにも近くにいるのに、もうすぐ遠くへ行ってしまう。
時が止まればいい――それだけを、何度も何度も、祈っていた。
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