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第一章 この愛は、罪 6-2
掠れた低音が、耳元でささやかれる。
「高貴で、触れるのも躊躇 うような存在を、手のひらで震わせてみたくなる……そんな衝動を、あなたは知らないでしょう?」
ユリセスの指が、アドニスの手の甲をなぞる。
それは、まるで形のない告白のようだった。
「えっ……」
心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。
けれど、視線は逸らせなかった。
ユリセスはふっと微笑むと、手をゆっくりと離した。
アドニスは混乱の中で、パンを取ってかじった。
味が、しなかった。
耳に届くのは、鳥のさえずりと、自分の心臓の音ばかり。
「次はどうされますか?」
「えっ……?」
唐突な問いに肩を震わせたアドニスは、必死に気を取り直した。
「……もう少し登って、きのこを採ろうかと……」
「わかりました」
本当は、もう帰るつもりだった。
けれど、この時間が終わってしまうのが、惜しかった。
――神様。どうか、赦してください。
小さく心の中で祈って、アドニスはパンをもう一口かじった。
やはり、味はなかった。
二人は山の中腹 まで登り、湿った場所へと足を踏み入れた。
ここには、毒きのこも多く生えている。
「ユリセス様、きのこは私が見分けます。危険ですので、後ろについてきてください」
アドニスは斜面の緩 やかな方を選びながら歩いた。
だが、探しても探しても、食べられそうなきのこは見当たらない。
――やっぱり、急な場所にしか生えていないのかも……。
アドニスは覚悟を決め、少し急斜面へと足を向けた。
そのとき――
「キュー! キュー!」
かすかに聞こえる、切なげな鳴き声。
「リス……?」
声のする方へ進むと、一本の細枝に小さなリスが足を絡ませて動けなくなっていた。
――助けなきゃ。
「アドニス様、危険です!」
ユリセスの声が響いたと同時に、アドニスの足元が崩れた。
地面が傾き、視界が傾き、身体が引きずられるように斜面を滑っていく。
枝に手を伸ばすも、何一つ掴めなかった。
――このまま、落ちる。
強く目を瞑 ったそのとき、ふいに何かに包み込まれるように身体が止まった。
ドクン、ドクンと、自分ではない心臓の音が耳元に響いていた。
そっと目を開けると、目の前にあったのはユリセスの顔だった。
「お怪我は……ありませんか?」
アドニスは、ユリセスの身体の上にいた。
ユリセスは自分を庇 い、そのまま受け止めてくれていたのだ。
「あっ……も、申し訳ありませんっ!」
すぐに身体を離そうとした瞬間――
ユリセスはアドニスを強く抱きしめた。
まるで、離したくないと訴えてくるほど、力強くてアドニスは混乱した。
「ゆ、ユリセス様……私は大丈夫ですっ! 大丈夫ですから!」
「……私の心は……どうやら無事ではないようです……」
「えっ……」
「心臓が熱く、高鳴っています。アドニス様のせいです」
――どういう意味……なの……?
ユリセスの高鳴りが恐怖のせいだと信じたかった。
きっと、自分の無茶に驚いただけ――そう、思い込もうとした。
「……申し訳ありません。もう二度と不用意なことはしません……」
頭の上でユリセスはくすっと笑った。
「騎士として守らなければならないのに……壊したいと思ってしまうのはなぜでしょうか……」
「ユリセス様……?」
ユリセスはアドニスの頭を撫でながら、ゆっくりと言葉を紡ごうとした。
「……アドニス様。私は……」
その声を遮るように、リスの鳴き声が耳に飛び込んだ。
「っ……!」
アドニスは顔をそちらに向け、枝を外すと、リスはぴょんと跳ねて森へ消えていった。
「あ……っ! アドニス様……! 申し訳ありません……!」
ユリセスは慌てて身体を離し、距離を取った。
アドニスはただ黙って、心臓の音が少しずつ落ち着いていくのを感じていた。
二人の間に、沈黙が落ちた。
そのままきのこをいくつか摘み、山を降りるまで、言葉は一つも交わさなかった。
教会に戻っても、最低限の挨拶を交わすだけで、各々の部屋へ引き上げた。
夜。
アドニスは、ゆっくりとセレア像の前に膝をついた。
首元のフェルメンが揺れる。
けれど――祈りの言葉が、出てこなかった。
唇を動かしても、胸の奥に滲むものがせき止めてしまう。
……まだ、あのぬくもりが残っている。
手のひらに触れた体温も、耳にかすかに残る声も、消えていなかった。
ユリセスの腕に閉じ込められた瞬間の、あたたかくて、力強い抱擁。
頬をかすめた、彼の心臓の鼓動。
背を撫でた手のひら。
それは、安心とか、感謝とか、憧れだけでは済まない何かだった。
――僕は、ユリセス様のことを……。
そう思った瞬間、アドニスは慌てて頭を振った。
――違う。これは、違う。僕は神官で、彼は騎士で……これは、ただ守ってもらったからで……。
けれど、心は、ごまかせなかった。
あのときの距離。
あの声。
言いかけた、あの続きを。
――アドニス様、私は……。
あの言葉の続きを考えるたび、胸が締めつけられる。
ここから眠れぬ夜が続くなんて、思いもよらなかった。
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