9 / 66

第一章 この愛は、罪 6-2

 掠れた低音が、耳元でささやかれる。 「高貴で、触れるのも躊躇(ためら)うような存在を、手のひらで震わせてみたくなる……そんな衝動を、あなたは知らないでしょう?」  ユリセスの指が、アドニスの手の甲をなぞる。  それは、まるで形のない告白のようだった。 「えっ……」  心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。  けれど、視線は逸らせなかった。  ユリセスはふっと微笑むと、手をゆっくりと離した。  アドニスは混乱の中で、パンを取ってかじった。    味が、しなかった。    耳に届くのは、鳥のさえずりと、自分の心臓の音ばかり。 「次はどうされますか?」 「えっ……?」  唐突な問いに肩を震わせたアドニスは、必死に気を取り直した。 「……もう少し登って、きのこを採ろうかと……」 「わかりました」  本当は、もう帰るつもりだった。  けれど、この時間が終わってしまうのが、惜しかった。  ――神様。どうか、赦してください。  小さく心の中で祈って、アドニスはパンをもう一口かじった。  やはり、味はなかった。  二人は山の中腹(ちゅうふく)まで登り、湿った場所へと足を踏み入れた。  ここには、毒きのこも多く生えている。 「ユリセス様、きのこは私が見分けます。危険ですので、後ろについてきてください」  アドニスは斜面の(ゆる)やかな方を選びながら歩いた。  だが、探しても探しても、食べられそうなきのこは見当たらない。  ――やっぱり、急な場所にしか生えていないのかも……。  アドニスは覚悟を決め、少し急斜面へと足を向けた。  そのとき――  「キュー! キュー!」  かすかに聞こえる、切なげな鳴き声。 「リス……?」  声のする方へ進むと、一本の細枝に小さなリスが足を絡ませて動けなくなっていた。  ――助けなきゃ。 「アドニス様、危険です!」  ユリセスの声が響いたと同時に、アドニスの足元が崩れた。  地面が傾き、視界が傾き、身体が引きずられるように斜面を滑っていく。  枝に手を伸ばすも、何一つ掴めなかった。  ――このまま、落ちる。  強く目を(つむ)ったそのとき、ふいに何かに包み込まれるように身体が止まった。  ドクン、ドクンと、自分ではない心臓の音が耳元に響いていた。    そっと目を開けると、目の前にあったのはユリセスの顔だった。 「お怪我は……ありませんか?」  アドニスは、ユリセスの身体の上にいた。  ユリセスは自分を(かば)い、そのまま受け止めてくれていたのだ。 「あっ……も、申し訳ありませんっ!」  すぐに身体を離そうとした瞬間――  ユリセスはアドニスを強く抱きしめた。  まるで、離したくないと訴えてくるほど、力強くてアドニスは混乱した。 「ゆ、ユリセス様……私は大丈夫ですっ! 大丈夫ですから!」 「……私の心は……どうやら無事ではないようです……」 「えっ……」 「心臓が熱く、高鳴っています。アドニス様のせいです」  ――どういう意味……なの……?  ユリセスの高鳴りが恐怖のせいだと信じたかった。    きっと、自分の無茶に驚いただけ――そう、思い込もうとした。 「……申し訳ありません。もう二度と不用意なことはしません……」  頭の上でユリセスはくすっと笑った。 「騎士として守らなければならないのに……壊したいと思ってしまうのはなぜでしょうか……」 「ユリセス様……?」    ユリセスはアドニスの頭を撫でながら、ゆっくりと言葉を紡ごうとした。 「……アドニス様。私は……」  その声を遮るように、リスの鳴き声が耳に飛び込んだ。 「っ……!」  アドニスは顔をそちらに向け、枝を外すと、リスはぴょんと跳ねて森へ消えていった。 「あ……っ! アドニス様……! 申し訳ありません……!」  ユリセスは慌てて身体を離し、距離を取った。  アドニスはただ黙って、心臓の音が少しずつ落ち着いていくのを感じていた。  二人の間に、沈黙が落ちた。  そのままきのこをいくつか摘み、山を降りるまで、言葉は一つも交わさなかった。  教会に戻っても、最低限の挨拶を交わすだけで、各々の部屋へ引き上げた。  夜。  アドニスは、ゆっくりとセレア像の前に膝をついた。  首元のフェルメンが揺れる。  けれど――祈りの言葉が、出てこなかった。  唇を動かしても、胸の奥に滲むものがせき止めてしまう。  ……まだ、あのぬくもりが残っている。  手のひらに触れた体温も、耳にかすかに残る声も、消えていなかった。    ユリセスの腕に閉じ込められた瞬間の、あたたかくて、力強い抱擁。  頬をかすめた、彼の心臓の鼓動。  背を撫でた手のひら。    それは、安心とか、感謝とか、憧れだけでは済まない何かだった。  ――僕は、ユリセス様のことを……。  そう思った瞬間、アドニスは慌てて頭を振った。  ――違う。これは、違う。僕は神官で、彼は騎士で……これは、ただ守ってもらったからで……。  けれど、心は、ごまかせなかった。    あのときの距離。  あの声。  言いかけた、あの続きを。  ――アドニス様、私は……。  あの言葉の続きを考えるたび、胸が締めつけられる。  ここから眠れぬ夜が続くなんて、思いもよらなかった。

ともだちにシェアしよう!