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第二章 穢した愛 3

 免罪符一日目――。    夕日が沈み、夜の(とばり)が降りるころ。  アドニスは外套(がいとう)を羽織って懺悔室へと向かった。    夜気(やき)が肌に冷たく、懺悔室の中はなおさら冷えていた。  けれど、この冷たさはいつも通り。    問題は――心の方だった。    待っていると、最初の罪人がやってきた。   「神官様、私は……今は亡き父に、嘘をついてしまいました。喧嘩の末、死んでしまえと……言ってしまったのです。その翌日、父は病で……」    声が震え、男の目に涙が滲む。   「今でも悔やんでいます。どうか許しを……」 「貴方のお父様は、きっと本心ではないことをわかっておられますよ。私が神に祈りましょう」 「……ありがとうございます」 「さあ、手をお出しください」  アドニスがその手にそっと手を重ねると、相手の心の奥がふわりと広がっていく――。  そこに悔い改める意思があれば、罪は光に溶けて消える。  それが、免罪符の力だった。    だんだんと教会が騒がしくなってきた。  次から次へと罪を告白するものが現れるが、強盗らしき人物は来ていない。    人の気配がなくなると、もう深夜なのだとわかる。  大体この時間になると、人の往来がなくなる。    しかし、朝まで懺悔室にいなければならないのが決まりだ。    アドニスは人が来るまで、静かに祈りの言葉を唱えていた。    しばらくすると、教会の扉が開く音がした。  コツ、コツと足音を立てて誰かがやってくる音がする。  それは懺悔室の前で止まった。 「……神官様」    木扉(もくひ)の向こうから、低く湿った声が滲むように響いた。  その瞬間、胸がびくりと跳ねた。  ――今の声……。  耳の奥に、焼きついていた誰かの面影が蘇る。  優しくて、少し寂しげで……。  ユリセス――。    想い人の名が、喉元まで込み上げる。    思わず声をかけようとした瞬間。 「私は数多(あまた)の修道士を殺しました」    身体が一瞬にして凍りつく。  ドクンドクンと脈打つ音が耳に響いた。 「ねえ、ちゃんと罪を告白して反省したよ? 免罪符くれるよね? 俺の愛しの神官様……」  声の色が、急に変わった。  ひとつ前までの、あの静けさが嘘のよう。  ひとを喰ったような軽さ――けれど、中身は空っぽだった。  なのにその声は、ユリセスに、よく似ていた。  だからこそ、余計に気味が悪かった。  ――まるで、偽物が本物の皮をかぶって笑っているみたいだった。  その瞬間、舌なめずりの音が、木扉越しにぬめりと響いた。    ……これは、ユリセスではない。    ――強盗犯だ。    震える拳をぎゅっと握った。  ここで弱気になっているのを気づかれると、強引にあの手この手で脅してくる可能性がある。  自分だけではなく、村人にも何らかの危害を加えるかもしれない。  あらゆる最悪のケースがどんどん頭に浮び、唇が震えた。    ――ダメだ。弱気になるな、アドニス! 「あなたに……免罪符を与えるつもりはありません」 「どうして? 世にはびこる人間という名の害虫を駆除したんだよ? 褒美に免罪符くれたっていいじゃん?」    ――害虫? 害虫だって?    強盗犯には、罪を悔い改める気配がなかった。  それどころか、まるでもらって当然とでも言いたげな、誇らしげな態度――。    その傲慢(ごうまん)さに、身体がびくりと震えた。  怒りを押し殺し、アドニスは努めて冷静に声を発した。   「罪なき人々の命を奪ったあなたに、免罪符を受け取る資格はありません。私ができるのはただ、あなたの罪を神に祈ること――それだけです。……どうか、お引き取りください」    強い口調で言い放った。  相手はもう何人もの人間の命を奪っている。    ここで屈して免罪符を渡してしまえば、他の修道士あるいは民まで襲う可能性もある。  ――そして、僕も。    すると、男はくくっと不快な笑い声をあげた。   「罪のない人間? ふふっ……俺はね、神に仕える修道士のくせに、裏で寄付金を勝手に使って、豪遊してたやつらを殺したんだよ。村人に還元せず、賭け事と女遊びを繰り返すやつらに罰を与えただけ。俺は、神に代わって殺したんだよ? 免罪符をもらう資格はあると思うけど」  自分勝手な言い訳に唖然とした。    ――この男は狂ってる……!    思わず怒りをぶつけるように机を叩くと、万年筆がカチリと揺れた。  ペン先が書類を引っかき、紙に浅い線が残る。   「確かにあなたの言う通り、彼らは善人ではなかったかもしれません! ですが、彼らは法によって裁かれるべきです! あなたが裁くのではありません!」    教会内にアドニスの声が反響する。  男はぴくりと動くこともなく、貝のように口を閉じて静かにしていた。    ――もしかして、僕を殺そうと考えているの……?    アドニスの額から汗が流れ落ちた。    激昂(げきこう)して襲ってきたら……いや、懺悔室のドアには鍵が掛かっている。  向こうから来るのは不可能だ。    しかし、ドアを壊されたら……と、脳内で最悪のパターンが次々に浮かんでくる。    しんとした教会で相手の息遣いだけが聞こえる。  まだ帰ろうとしない男に焦りを隠せなかった。    ――免罪符をもらうまで居座り続けて僕を襲いに来るはずだ。  静寂が耳を圧迫する。  アドニスが耐久戦になると覚悟した、その瞬間――   「わかったよ。免罪符は諦める」    強盗の潔さに、アドニスは少し拍子抜けしてしまった。    ――この男は一体何を考えているのだろう……。   「……それなら、俺が神官様に免罪符をあげようか?」 「えっ……?」  そう言って、男は笑った――まるで、全てを見透かしていたかのように。

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