16 / 66
第二章 穢した愛 3
免罪符一日目――。
夕日が沈み、夜の帳 が降りるころ。
アドニスは外套 を羽織って懺悔室へと向かった。
夜気 が肌に冷たく、懺悔室の中はなおさら冷えていた。
けれど、この冷たさはいつも通り。
問題は――心の方だった。
待っていると、最初の罪人がやってきた。
「神官様、私は……今は亡き父に、嘘をついてしまいました。喧嘩の末、死んでしまえと……言ってしまったのです。その翌日、父は病で……」
声が震え、男の目に涙が滲む。
「今でも悔やんでいます。どうか許しを……」
「貴方のお父様は、きっと本心ではないことをわかっておられますよ。私が神に祈りましょう」
「……ありがとうございます」
「さあ、手をお出しください」
アドニスがその手にそっと手を重ねると、相手の心の奥がふわりと広がっていく――。
そこに悔い改める意思があれば、罪は光に溶けて消える。
それが、免罪符の力だった。
だんだんと教会が騒がしくなってきた。
次から次へと罪を告白するものが現れるが、強盗らしき人物は来ていない。
人の気配がなくなると、もう深夜なのだとわかる。
大体この時間になると、人の往来がなくなる。
しかし、朝まで懺悔室にいなければならないのが決まりだ。
アドニスは人が来るまで、静かに祈りの言葉を唱えていた。
しばらくすると、教会の扉が開く音がした。
コツ、コツと足音を立てて誰かがやってくる音がする。
それは懺悔室の前で止まった。
「……神官様」
木扉 の向こうから、低く湿った声が滲むように響いた。
その瞬間、胸がびくりと跳ねた。
――今の声……。
耳の奥に、焼きついていた誰かの面影が蘇る。
優しくて、少し寂しげで……。
ユリセス――。
想い人の名が、喉元まで込み上げる。
思わず声をかけようとした瞬間。
「私は数多 の修道士を殺しました」
身体が一瞬にして凍りつく。
ドクンドクンと脈打つ音が耳に響いた。
「ねえ、ちゃんと罪を告白して反省したよ? 免罪符くれるよね? 俺の愛しの神官様……」
声の色が、急に変わった。
ひとつ前までの、あの静けさが嘘のよう。
ひとを喰ったような軽さ――けれど、中身は空っぽだった。
なのにその声は、ユリセスに、よく似ていた。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
――まるで、偽物が本物の皮をかぶって笑っているみたいだった。
その瞬間、舌なめずりの音が、木扉越しにぬめりと響いた。
……これは、ユリセスではない。
――強盗犯だ。
震える拳をぎゅっと握った。
ここで弱気になっているのを気づかれると、強引にあの手この手で脅してくる可能性がある。
自分だけではなく、村人にも何らかの危害を加えるかもしれない。
あらゆる最悪のケースがどんどん頭に浮び、唇が震えた。
――ダメだ。弱気になるな、アドニス!
「あなたに……免罪符を与えるつもりはありません」
「どうして? 世にはびこる人間という名の害虫を駆除したんだよ? 褒美に免罪符くれたっていいじゃん?」
――害虫? 害虫だって?
強盗犯には、罪を悔い改める気配がなかった。
それどころか、まるでもらって当然とでも言いたげな、誇らしげな態度――。
その傲慢 さに、身体がびくりと震えた。
怒りを押し殺し、アドニスは努めて冷静に声を発した。
「罪なき人々の命を奪ったあなたに、免罪符を受け取る資格はありません。私ができるのはただ、あなたの罪を神に祈ること――それだけです。……どうか、お引き取りください」
強い口調で言い放った。
相手はもう何人もの人間の命を奪っている。
ここで屈して免罪符を渡してしまえば、他の修道士あるいは民まで襲う可能性もある。
――そして、僕も。
すると、男はくくっと不快な笑い声をあげた。
「罪のない人間? ふふっ……俺はね、神に仕える修道士のくせに、裏で寄付金を勝手に使って、豪遊してたやつらを殺したんだよ。村人に還元せず、賭け事と女遊びを繰り返すやつらに罰を与えただけ。俺は、神に代わって殺したんだよ? 免罪符をもらう資格はあると思うけど」
自分勝手な言い訳に唖然とした。
――この男は狂ってる……!
思わず怒りをぶつけるように机を叩くと、万年筆がカチリと揺れた。
ペン先が書類を引っかき、紙に浅い線が残る。
「確かにあなたの言う通り、彼らは善人ではなかったかもしれません! ですが、彼らは法によって裁かれるべきです! あなたが裁くのではありません!」
教会内にアドニスの声が反響する。
男はぴくりと動くこともなく、貝のように口を閉じて静かにしていた。
――もしかして、僕を殺そうと考えているの……?
アドニスの額から汗が流れ落ちた。
激昂 して襲ってきたら……いや、懺悔室のドアには鍵が掛かっている。
向こうから来るのは不可能だ。
しかし、ドアを壊されたら……と、脳内で最悪のパターンが次々に浮かんでくる。
しんとした教会で相手の息遣いだけが聞こえる。
まだ帰ろうとしない男に焦りを隠せなかった。
――免罪符をもらうまで居座り続けて僕を襲いに来るはずだ。
静寂が耳を圧迫する。
アドニスが耐久戦になると覚悟した、その瞬間――
「わかったよ。免罪符は諦める」
強盗の潔さに、アドニスは少し拍子抜けしてしまった。
――この男は一体何を考えているのだろう……。
「……それなら、俺が神官様に免罪符をあげようか?」
「えっ……?」
そう言って、男は笑った――まるで、全てを見透かしていたかのように。
ともだちにシェアしよう!

