17 / 66

第二章 穢した愛 4

 アドニスは混乱した。    ――何を言っているのだろう……。    男は隙間からコロッと何かを転がすと、それはアドニスの目の前で止まった。    月明かりに照らされた瞬間、アドニスの瞳孔がすうっと開いた。  まるで、心の奥の鍵がひとつ外れてしまったかのように――。   「神官様が欲しかったものだよね?」    男がくくっと笑った。    槍のような先端に黒光りする太い棒。  ――張形だった。    アドニスの唇がガタガタと震え始めた。    あの夜の……誰にも触れられてはいけない悦びを――この男の視線の中で、無防備にさらしていたなんて。   「毎晩、気持ちいいことしてたよね? 発情した獣のような声あげて、腰を振っててさ……やらしいね」    アドニスの額からとめどなく汗が流れてくる。  背中も汗でびっしょりと濡れている。   「ユリセス様って何度も呼んでイッてたよね?」  アドニスの身体が震え出した。  収めようと両腕で自分を抱え込んだが、震えは止まらない。  ――名前まで……聞かれていたなんて……。    目を閉じれば、指を這わせながら喘いだあの夜が蘇る。    『ユリセス様……っ! どうかご慈悲をっ……!』    何度、繰り返しただろう――快楽と共に、祈るように呼んだあの名前を。 「あいつでしょ? 隣国の騎士団長」    ――待って……それ以上は……それ以上は……!  獲物を前にした肉食獣のような、舌なめずりが聞こえた。   「……ねぇ、神官様。このことを、みんなが知ったらどうなると思う?」  心臓が凍りついたように止まった。    地面が傾く。  心臓の音が遠ざかり、世界が音を失って――祈りも、理性も、闇に呑まれた。    ――まさか、こんな形で脅されるなんて……。    男が色んな手を使って、アドニスを陥れることは簡単なことだった。  ――ダメだ、アドニス! 民に……ユリセス様に知られようとも免罪符を渡しては……!  その時、脳裏に(ひらめ)いた。    この男の目的は免罪符を手に入れること。  自分が死ねば免罪符は二度と手に入らない。    すぐさま、保身用の短刀を手に取った。   「……誰に何を言われようとも構いません。私は死んでもあなたに免罪符は与えません。あなたが帰らないのであれば、私はここで喉にナイフを突き立てて死にます!」    月明かりが反射して、短刀の刃先が一瞬きらりと光った。  それはまるで――命綱の火花のように、一瞬だけ(きら)めいていた。

ともだちにシェアしよう!