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第二章 穢した愛 5

「おー、こわいこわい。そんな物騒なものしまってよ」    男は嘲笑(あざわら)うと、それきり黙り込んだ。  足音一つ立てず、そこに在り続ける。  呼吸の気配だけが、ゆっくりとアドニスの神経を(むしば)んでいく。    月が雲に覆われ始め、刻だけが過ぎていった。    ――早く帰って……!    アドニスは心の内で何度もそう願った。   「わかったよ。俺の負けだ」    あっけなくそう言うと、男は教会を後にした。  教会は静まり返り、ほんの数分前の出来事が、夢だったかのように霞んでいく。  だが、視界の端に転がる異物が、それを否定していた。  あの形状、あの存在が、現実の残酷さを突き刺してくる。  アドニスの背筋を、嫌な汗が伝う。  明日、あの男が自分の痴態(ちたい)を暴露するかもしれない。    ユリセスに軽蔑される未来が、脳裏をよぎる。  村人たちの視線すら、想像しただけで呼吸が苦しくなった。    ――それでも、免罪符だけは渡してはいけない……!    ぎゅっと手を握った瞬間、びりっとした痛みが走った。  手を開くと、じわりと血が滲み出していた。  短刀を強く握りすぎて、皮膚が裂けていたのだ。    血で濡れた掌では、もう誰の手も握れない。 「……これでは、免罪符を……」  懺悔室には、手当てに使う布も薬も置かれていなかった。  ――少しだけ、ほんの一瞬。神よ、どうか、どうかお赦しください。  アドニスは手を押さえながら、そっと懺悔室を出て、小走りで廊下を進んだ。  手のひらの傷からは、まだじわじわと血が滲んでいる。   「早く……包帯を……」  薬箱に手を伸ばしかけた、そのとき――。  「っ――!」  背後から突然、ぐいっと身体を引き寄せられた。    「やめてくださいっ……!」    アドニスは必死に体を捩った。  暗闇の中、持っていた短刀を反射的に振るう。  相手が小さく(うめ)く声がしたが、どこに当たったのかはわからなかった。  逃げようと身を(ひるがえ)した――だが、手首を捕まれる方が早かった。  力任せに奪われた短刀が、床にカランと音を立てて転がる。   「やだなあ、神官様。そんな痛いことするなんて……」    耳元で、にやけたような声が囁く。   「……赦しが遠のいちゃいますよ?」 「やめっ、やめてください……!」  ずるずると引きずられるように、懺悔室の闇へと押し込まれた。  必死に抗っても、力の差は歴然で――扉の向こうに、外の世界は遠ざかっていく。    鍵がカチャリと閉まる音が、まるで呪いのように響く。    闇が閉じた――。    小さな箱庭のような懺悔室に、二人だけの罪が閉じ込められた。 「神官様は、朝まで懺悔室にいなきゃダメでしょ?」  耳元で囁かれるその声に、血の気が引いた。  さっきの――あの男だ。  抑揚のない、感情のない、冷たく歪んだ声。  懺悔室の中、息が詰まりそうなほどの緊迫感が支配する。 「私を……殺すつもりなら……っ、どうぞ殺してください……!」 「殺す? まさか」    男が笑う。  何もかも知っているかのような微笑だった。 「俺がしたいのは、救いだよ」    アドニスの背後から、冷たい指が襟元に這う。  次の瞬間、びり、と布の裂ける音がした。 「やめて……っ!」 「ねぇ、神官様……。お返しに、俺の免罪符も受け取ってくれるよね?」  ゆっくりと囁かれた声が、耳の奥にぬるく染み込む。    ――まるで、濡れて、染みて、逃げられない罰のように。

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